東証上場 ヘルスケアIT企業 広報・IRリーダー
化粧品メーカー 広報・IR課長
保科 拓郎 氏 42歳 / 男性
学歴:慶應義塾大学 商学部 卒
日商簿記検定試験 2級
TOEIC 860点
私はテレビ業界に長く身を置いており、そこから一般企業への転職を果たすことができました。一般的なケースではないかもしれませんが、参考になれば幸いです。
私は、いわゆる 「就職氷河期世代」 で、大学3年も後半になると周りの友人は皆、就職説明会の申し込みハガキをひたすら送っては説明会に参加し、時間の許す限りOB訪問を重ねる、といった就職活動に、それこそ血眼になって取り組んでいました。そんな中、私自身はというと、友人たちを横目にやりたい仕事をしたい、という思いを強く持ち、同じような就職活動はしませんでした。
しかしやりたい仕事、というのは、私の中ではさほど明確ではありませんでした。
大学時代に、古い映画や世界中の様々な国の映画を多く見ていたことや、友人と集まって映画を作った経験等から、「映画を作る仕事がしたい」 と漠然と思っていましたが、どうやってその仕事に就くのか、という具体的なビジョンを持つことなく、大学を卒業しました。
大学卒業後、アルバイトを掛け持ちしていましたが、さすがに就職しないといけない、という焦りが出て、テレビの制作会社に入社しました。
好きな映画監督がドキュメンタリー出身だったことから、まずはドキュメンタリーの仕事をしてみようと考え、「マスコミ就職読本」 に載っていたドキュメンタリー制作会社に片っ端から自己紹介と就職を希望する旨を書いたハガキを送り、最初に声をかけてくれた会社でアシスタントディレクターとして働くことになったのです。
入社した会社は、30人ほどのドキュメンタリー制作会社で、「情熱大陸」 や 「ザ・ノンフィクション」 等の番組を制作しました。
リサーチからロケ取材、編集作業と常に忙しく、泊まり込みの仕事等ざらでしたし、映画業界から受け継いだ 「徒弟制度のノリ」 が濃厚で、ディレクターから厳しい指導を受ける日々の連続でした。しかしその御陰で、テレビ制作のイロハを体で覚えることができました。
またアシスタントディレクターという、周囲全体への気配りが求められるポジションを初めに経験したことで、様々な人との円滑なコミュニケーションが自然にできるようになったと思っています。
アシスタントディレクターの仕事に慣れてきた頃、映像編集の面白さを改めて発見し、編集を本格的に学びたいという気持ちから、テレビ局でニュース映像を編集する仕事に転職しました。そこで、報道カメラマンが撮影した映像素材をニュースの放送用に編集する仕事をして、映像編集のセオリーと技術を身につけることができました。
映像編集は奥が深く、日々学ぶことの連続でしたが、ニュース映像の編集は、その日その日で完結するものがほとんどで、次第に物足りなさを感じるようになりました。
2年間働いた後、外に出て取材する仕事を求めて転職を決意しました。
当初は、制作会社からの派遣として、テレビ局の報道番組のディレクターとして働く予定でしたが、ひょんなことから派遣先の社会部の記者になりました。記者の人手が一時的に足りなくなったため、ディレクターとして働く前に1か月だけ記者として働いてほしいと言われたのです。
当時は、テレビ局の社員以外の人間が記者の仕事をすることは異例中の異例でした。
もちろん、それまで記者という仕事をしようと考えたこともなく、何もわからない状態からのスタートでしたが、いざ飛び込んだその世界はこれまでになく刺激的でした。
事件、事故で、当事者たちから直接話を聞くという貴重な経験。そうした情報を手掛かりに取材を進めていくゾクゾク感。取材したことを原稿にし、映像にまとめる楽しさ。そして何より、こうした取材の力量が放送という形で結実し、他社との比較によって評価される厳しさ。
上司にも恵まれ、結果だけでフェアに評価される世界がそこにはありました。
無我夢中で仕事に取り組んだ結果、1か月の契約は3か月に延長され、さらに1年に延長され、気付いたら12年間に亘り記者の仕事をしていました。海外取材も経験し、自分の希望する省庁の担当につけてもらう等、充実感のある時間を過ごすことができました。
記者として働いていた当時、「転職35歳限界説」 をよく耳にしました。制作会社からの派遣という不安定な身分のまま、記者を続けていくことに不安はありましたが、目の前の充実感でその不安を打ち消しながら仕事を続けていました。ただ、自分なりに考えた 「保険」 として、簿記や英語等の資格を取っていました。
テレビ業界からの転職を真剣に考え始めたのは、40歳を迎える頃です。
一般に、記者という仕事は 「あがり」 が早いと言われています。現場の記者は、20代・30代が多く、40代後半あたりから急激に少なくなります。「ベテラン記者」 として生きていく道もありましたし、記者とは違うポジションでテレビ局に残ることももちろん可能でしたが、業界自体の活気がなくなっていることを肌で感じていたこともあり、私自身そういった方向には魅力を感じませんでした。
自分には他に何ができるだろうか、と考え、自然に浮かんできたのが広報・IRの仕事でした。
これまでに様々なタイプの広報担当者と接してきた経験があること。もともと様々な人たちの間に立って調整することに向いていたこと。取材をする・文章を書く・映像を作る、といったメディアサイドでの経験を余すことなく生かせると考えたこと等が理由です。
とはいえ、転職活動は思うようには進みませんでした。40歳を過ぎた広報業務未経験の応募者が敬遠されるのは当たり前といえば当たり前です。
開き直って、やれるだけやってみようと考え、募集要項の年齢制限等一切気にせず、それこそ手当たり次第に広報・IR職に応募してみました。
何百件と応募した中、私に興味を持ってくださった化粧品会社の広報・IR職に運良く内定し、迷うことなく転職を決意しました。
転職して、広報・IRの仕事を実際に経験したことで、この職種がこれまでの実務経験を存分に活かせることを確信できました。しかしながら、入社した会社は30人程度の会社にもかかわらず、1年で退職者が20人にものぼるような会社で、仕事を永く続けていくことに不安を覚えるようになりました。
1年間働いた段階で、エリートネットワークの転職カウンセラーの高橋さんに相談をしました。
高橋さんには、嘗て記者時代に転職の相談をさせていただいており、その際にいくつも会社を紹介してくださいました。
その時は、私自身の力量不足で成就しなかったのですが、誰よりも親身に相談に乗ってくれたこと、紹介していただく案件がどれも優良企業で意外性がありながらもセンスの良さを感じさせるものだったことから、全幅の信頼を寄せていました。
高橋さんからは、自分一人では気付くことができなかった重要なことをいくつか指摘していただきました。具体的には、転職市場での自分の立ち位置 (特異性)、自分の持っているアドバンテージとウィークポイント等で、そうしたことを客観的に把握できたことが、転職活動において何よりも重要でした。
尚、今回ご紹介していただいた案件 (上場企業) はやはりセンスの光るもので、私自身、このチャンスは絶対に逃すまいと考え、事前準備を徹底的に行いました。
高橋さんのアドバイスに従い、自己紹介と志望動機は、100回以上声に出して練習しました。また会社のサイトをじっくりと見た上で、有価証券報告書を20回以上繰り返し読み込み、さらに業界についての本を図書館で借りて読みました。
準備に時間をかけたことで、面接でも、是非とも働きたいという真剣な気持ちを自然な形でアピールできたと思っています。
内定をいただいてからまだ2週間しか経っておらず、あまり実感が湧いていない状態ですが、エリートネットワークを通じた素晴らしい転職ができて、本当に良かったと思っています。
ありがとうございました。