29歳、日系金属部品メーカーの海外営業から、大手出版社の海外事業部への転職。

29歳、日系金属部品メーカーの海外営業から、大手出版社の海外事業部への転職。

No.608
  • 現職

    一部上場 大手出版社  海外事業部門

  • 前職

    日系金属製品メーカー  海外営業

永沢 良孝 氏 29歳 / 男性

学歴:公立大学 国際文化学部 卒
英語、中国語ビジネスレベル

はじめに

本当に奇跡のような転職活動でした。
零細から大企業、異業種、遠方からの転職等、様々な不利な条件がありましたが、転職カウンセラーの杉本様の御蔭で、一部上場の大手出版社に内定を頂くことができました。まず初めに “縁” を結んで頂いた杉本様へ感謝申し上げます。

就活 (新卒) 時の志について

今回転職活動至った背景として、まず、新卒時の就活の志を振り返りたいと思います。

当時の志望動機は、第一に自己成長できる場であること 第二に海外で働ける環境があることでした。人的な力がモノを言う、コンサル、商社を中心に受けました。その中で先輩の縁もあり日系大手コンサルティング会社に出会い、内定を頂きました。当時は 「コンサルタントになれば、厳しい仕事だし自己成長できるだろう。はっきりとやりたいことが定まっていなくても、転職にも強いだろう」 と安易に考えていました。

内定後、卒論の調査も兼ねて中国に留学し、日系企業、関連機関を20社以上訪問しインタビューをさせて頂きました。当初、何のコネクションもなく、進出企業のリストを見て連絡してアポを取るという方法を取っていましたが、なかなかうまくいきませんでした。JETROなどの公的機関に足を運び、日系の中小製造業受発注取引ポータルサイトを運営する会社を紹介頂き、総経理の前で卒業論文のテーマをプレゼンさせて頂く機会を得て、そこから顧客企業様10数社を紹介して頂くことになり、飛躍的にアポの数が増えました。工場の責任者クラスの方々にインタビューをさせて頂く中で、海外で仕事をする醍醐味を目の当たりにしました。この経験から、私の海外志向はより大きなものとなりました。
留学を終え、帰国後すぐに卒業、入社となりました。

新卒で入ったコンサル会社を数か月で辞めて前職に至るまで

入社後、研修が始まると本当に先輩社員の話は論理的で面白く、憧れていた世界だなと思う反面、一人前になるまで10年が一つの目安で海外はその後であるということが分かりました。また、研修の一環として自己紹介のプレゼンを行った際に、なぜこの会社を選んだかということをもう一度考え直しました。その時、他の同期生達が生き生きと話すのに対して、果たして自分が本当にやりたかったのはこの仕事なのかと思い悩むようになりました。遂には選考から1年以上もお世話になった会社を研修期間の終わるまでの、わずか2か月で辞職するに至りました。

新卒で入った会社をわずか2か月で辞めての初転職活動を開始しました。短期間で辞めたこと、職歴がほぼないことはかなり不利に働くと考え、会社の規模や業種に限らず、海外で働くことを第一優先にしました。

何社か面接を受ける中、3か月程で海外に展開する前職の中小金属製品メーカーの内定を頂くことができました。海外営業職としての採用、携帯用製品での世界シェアNo.1、若い人にも積極的に仕事を任せるという社風という点に期待し、入社を決意致しました。

日系金属製品メーカー入社〜台湾駐在まで

入社当初は、東京を拠点に、毎月2回程、中国、韓国を中心としたアジア各国の顧客へ出張に行く日々が続きました。ちょうどその頃、台湾のPC大手ファウンドリーが部品を内製化するために合併の話を持ち掛けてきました。社内で唯一中国語が話せる私は通訳、接待役に選ばれました。結果としては、そのタイミングでの、合併提案はお断りする事となりましたが、1年後、台湾PC市場に対する新規事業部ができ、事業拡大を狙い台湾事務所設立が決まり、その駐在員に選ばれました。

現地で一から事務所を立ち上げる為、最初の2ヵ月程は毎週訪台し、顧客との商談と並行して、事務所の立地選定、賃貸契約、法人登録を行いました。また、現地スタッフ採用の際には20名近くを面接し、部下ができました。初めての経験ではありましたが、周囲の方の力添えもあり、3ヵ月程で台湾事務所を立ち上げることができました。

駐在してからは、顧客への訪問頻度も増え、顔見知りとなると本当に仕事がやり易くなりました。また、プライベートでもたくさん現地の友人ができ、台湾という国を肌で感じることができました。また、初めての部下を持ったことも良い経験となりました。同年代で異性、言うべきことは率直に言ってくれる性格だったので本当に色々と考えさせられましたが、山本五十六の 「やってみせ、言って聞かせてさせてみて、誉めてやらねば人は動かじ」 という金言を体得できた気がします。

その後、現地代理店の協力もあり、急速に受注案件が増えていきました。案件毎の収支計算、量産までの日程管理、技術者間のコミュニケーション仲介という役割でしたので業務負担がかなり大きくなっていきましたが、なんとか残業、休出で対応していました。しかし、技術的な課題が解決できず、残念ながら、初年度末で新規事業は一時凍結となりました。既存事業において新規大型案件を受注できたので、なんとか2年目に入りましたが、試作品での不良が続き、顧客を帯同しての中国出張が増え、またもや技術的な問題を解決できず、量産までの目途が立たない状態となっていました。また当時、国内携帯市場の変化による需要の大幅減、技術的な問題による失注、開発遅延によって経営状況は大変厳しいものでした。ついには、昇給ストップ、全社員一律 給与カットとなります。

韓国駐在〜吸収合併まで

当時、会社が本当につぶれるか否かの状況で、唯一希望が残っていたのが韓国事業でした。
主要顧客は韓国大手電機メーカー。そこで働く日本人技術者からの紹介で数年ぶりに取引を開始し1年が経とうしている状況でした。その方は日本の大手電機メーカーから韓国へと渡り、10年以上働いている方なので、非常にレベルが高く、サプライヤーにも高い水準を求め、熱い指導を行う方でした。当時、事業部長をはじめ、開発担当者等4−5名が常に韓国に駐在し、その指導を受けていましたが、営業は家庭の事情もあり、出張ベースの対応しかできなかったので、私に白羽の矢が立ち、韓国駐在が決定しました。

通常の案件進捗に加えて、その方からは沢山の課題を頂きました。時には、自分の現状を理解するために、相当厳しい叱咤激励を頂きました。しかし、今振り返ってみると、このことは、今までの人生で一番勉強になったと感じています。また、本当に会社が潰れるかという危機感の中、皆必死で仕事をし、韓国事業だけはなんとか前年比増収増益を達成することができました。

しかし、全社的な経営危機は拭い去れず、ついに大阪の金属加工会社への韓国の事業部の吸収合併が決まりました。私を含めて韓国の事業部メンバーは全員、春から新会社に転籍となりました。私はそのまま韓国駐在となる予定でしたが、大阪本社勤務への異動を言い渡されました。出来たばかりの会社で、経理や雑務、など様々な場面で若い人が必要だったのかと推察します。カーペット設置、電話・FAX工事手配、新入社員の社宅の手配等、文字通り雑務の仕事ばかりやらされていました。

転職決意〜面接に至るまで

そんな毎日の中で、6月頃海外での仕事にこだわってきた私は転職を決意しました。
以前と同じく海外に携われること、成長できる環境であることと、更に今回は信頼できる企業であることを転職の条件にしました。インターネットで 「大手への転職に強い」 という (株)エリーネットワークという人材紹介会社を見つけ、『転職体験記』 を読むと胸を打つようなものもあり、すぐに登録を行いました。登録を行うとすぐに連絡があり、初めて転職カウンセラーの杉本様との面談を行いました。当時は職務経歴書も未完成で自分の気持ちもまとまらない中、非常に短い時間、さらに電話での話でしたが、昔からの知人のように話し易い方でしたので、思いのたけをお話させて頂きました。その日のうちに、今回入社する事になる会社を含め沢山の求人案件をご紹介して頂きました。非常に魅力的な求人ばかりで期待感が膨らみ、何社か応募させて頂きました。

その後、雑務が一段落し、新規営業を本格的に始めました。技術と価格での優位性をアピールし顧客に好評価を頂きましたが、財務面に対しての懸念から、新規採用の見送りとなってしまいました。親会社の主要製品が国内電機メーカーに大きく依存しており、その業績悪化と連動し、非常に苦しい状態となっていた為です。営業職としては、本当に残念で悔しい気持で一杯でした。そして、この時から客観的に経営状態を見ながら転職活動をしなければいけないなと痛感しました。

11月になり、本格的に転職活動を開始したいと杉本様にお伝えしたところ、更に数社ご紹介して頂き応募しました。同時に、他転職エージェントを経由して、大手商社等へ応募していましたが、在籍する企業の規模、経験が異なるという理由で書類での落選が続いていました。そんな中、12月初旬に突然 、一部上場の大手出版社から一次面接の案内が来ました。第一志望の企業でしたので、本当に嬉しいという気持ちと、なぜ最初の応募から時間が経った今、私が選ばれたのか疑問に思い、転職カウンセラーの杉本さんに確認してみると、先方の求人ニーズはあったものの実際の選考プロセス決定までに時間がかかっていたことや、私の海外でのタフな経験が評価されているという話をお聞きすることができ、ホッとしました。

しかし、転職活動が動き出したと思ったのと同時に韓国への再駐在の話を頂くことになりました。今までの大阪での下積みを経て、再度海外に送り出すことを決めてくれた会社には感謝していますが、さすがにこのタイミングは遅過ぎたと思います。その時点では、まだ内定を頂いていない状態でしたので、一旦韓国再駐在の話を受けることにしました。

その後、赴任休暇を利用し大阪から東京へ、一次面接に臨みました。事業部長を含め3対1での面接でした。「大学から自分が今までどのような軸で仕事してきたか」、「自分の強みである行動力」 などを問われ、回答しました。中国語でも自己PRを行いましたが、事業部長から 「台湾に2年間いた割には、中国語が下手だね」 とガツンと言われてしまいました。ある程度ひるむ場面だったかと思いますが、私はすぐ素直にそれを認めて、「改めて勉強し直します」 という前向きな回答をしました。ただ、全体の面接の印象としては、あまり良くできなかったと思い、転職カウンセラーの杉本様にも駄目かもしれないという報告をしました。

しかし、思いがけず、面接から1週間後に一次面接通過の連絡を頂きました。駄目だと思っていたので、本当に嬉しかったです!!

一方、韓国赴任の話がどんどん進んでいる事もあり、赴任前に次の面接を設定して欲しいと希望を伝えましたが、先方の都合により年明けの面接設定になるとの事で、12月末、韓国に再赴任致しました。

2回目の韓国駐在は前回と違い、他のメンバーもいない、一人駐在でのびのびと既存顧客への拡販、新規営業活動を行いました。新規については、既に内製化しているなど、なかなかうまくいかない状況でしたが、既存顧客に対しては、新規案件を受注することができ、幸先の良いスタートを切った韓国駐在ですが、それも長くは続きませんでした。

一方、転職活動は1月末に2次の役員面接が設定され、韓国から東京へ飛び、5、6名の役員に面接して頂くこととなりました。志望度が高かった事もあり、若干緊張してしまい、終始声が上ずってしまいましたが、ストレスへの耐性や体力について聞かれた時に、即 「自信があります!」 と言い切った事は良かったと思います。

面接後、当日中に結果を頂けるということでしたが、なかなか連絡が来なかった為、神社で願掛けをして、転職カウンセラーの杉本様に連絡をして、駅前の喫茶店で今か今かと結果連絡を待っていたところ、携帯電話が鳴り、「通過」 との連絡を頂き、思わず、笑顔とガッツポーズが出ました!

それから1週間後に、最終の社長面接となりました。
面接の前に入社時の条件等を人事部の方に説明して頂き、面接というよりは面談という形で終始にこやかに話して頂き、晴れて正式内定を頂きました。即日、上司に退職届を提出、その翌週には受諾され、2月末での退職が決まりました。

韓国での最後の夜は、思いがけずお客さんから送別会を開いて頂き、「永沢さんと仕事出来て良かった。あなたのひたむきな姿はこれからも大事にして欲しい。次の職場でも成功して、また会いましょう」 と本当に有難いお言葉を頂きました。

(株)エリートネットワーク社と並行して利用していたJ社では、一度、対面での面接を経てから、すごい数の求人を頂きました。担当以外の方からも毎日のように連絡があり、累計100社以上紹介頂いたと思います。最初は、大手商社等、魅力的な企業が数社ありましたが、書類で全て落ちて、その後はまったく志望と異なる求人情報ばかりで正直辟易しました。

次の職場に賭ける意気込み等

まだ実際の職務に就いた訳ではありませんが、「天職」 に出会えた気がします。
世の中は、ハードからソフトの時代に移っています。
私は読書が大好きで、少なくとも年間50冊以上は読みますが、海外にいると欲しい書籍がなかなか手に入らず、日本に帰った際にはスーツケース一杯に本を買ってきたり、輸送費を加えても購入していました。これからは電子書籍などの発達で即時、費用も安く手に入れることができるようになります。
また、台湾でも、韓国でも、他の諸国でも 日本の漫画やアニメは有名です。
ファンがたくさんいます。そういった、無形の商材ですが、日本という国のブランドにとって非常に大事なものになっています。
ものづくりが衰退するなかで、日本の将来の成長において、コンテンツ産業は欠かすことができないと思います。
その一端を担えることは本当に幸せで、やり甲斐がある仕事だと思います。
この仕事でもきっとたくさんの出会いがあると思います。すべての出会いに感謝して仕事していきます。
乱筆、長文、大変申し訳ありませんでしたが、私の 『転職体験記』 とさせて頂きます。
御拝読、誠にありがとうございました。

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