包装資材製造・加工メーカー 海外営業部長
一部上場 精密機器メーカー 海外営業専任課長
岡安 次郎 氏 48歳 / 男性
学歴:明治大学 商学部 商学科 卒
TOEIC 840点
25年勤めた会社を、現職のまま転職先を探そうと思い立って、ネットの転職紹介サイトに登録し、そこから来る面接依頼に頼りながらの活動がなかなか思うように行かず、後述する転職活動も9ヶ月が過ぎておりました。その間に1社だけ内定を頂いた会社に行くべきかどうか悩んでいた際、会社の親しい方から紹介を受けたのが、(株)エリートネットワークの転職カウンセラーの高橋さんでした。
師走も大詰めの12月28日に銀座のオフィスにお伺いし、高橋さんと1時間半弱カウンセリングをして頂きました。今迄の経歴、転職の背景、転職先の希望確認から、社会情勢、政局、国際関係などの話に及び、自分が何を考え、判断し、行動しているか等についてもご確認されたのだと思います。
そこで言われたのは、一社でこれだけの経験をしていらっしゃるにも拘わらず、48歳からの転職活動は “遅きに失していますね” ということと、それでもチャンスはどこかにあるでしょうから、“一緒に頑張ってみますかね”、ということでした。そのお言葉を信じて、何社かの求人案件をご紹介されたのが年明けのこと。その中で1社の面接依頼が来たのが1月中旬頃、先方の社長と本部長のお二人との面接1時間でほぼ採用が決まったとのこと。その一週間ほど後に、それでも再確認のために居酒屋で飲みながら今一度、じっくりとお話しましょう、ということで本部長とお話をさせて頂き、内定通知を頂いたのが1月末。2週間の間に全てが動き、決まったことが驚きですが、その影には高橋さんからの強力な推薦とフォローがあったからとの認識を新たにしています。先方の社長が私よりも3歳年下、本部長が2歳年下であることからも、採用には慎重であったようですが、それをものともせず、採用を真剣にご検討頂けたのは、高橋さんからの推薦に対する信用度の高さがあったからだと思います。
それと共に、高橋さんの的確且つタイムリーなフォローアップがあったことが、採用の決め手にもなっていたようです。一次面接が終わった後、先方の社長から高橋さんにフィードバックがあった際、採用には大筋でOKであるものの、面接時に私の顔の表情が乏しく、何を考えているか分からない(腹では別のことを考えているのでは?)、という気になる点を指摘されたとの事。これは、現職でも指摘されている私個人の性格によるもので、私を良く分かってくれている方には問題がないものの、初対面の方には誤解を与えやすい欠点そのものでしたし、それが転職活動の採用面接にも悪い影響を与えているケースが多いことも事実でした。高橋さんは、そのフィードバックに対して、地方出身の人にありがちなことで、全然問題ないですよ、とフォローして頂いたのが決定打にもなったようです。先方の会社にも長野県に資本提携をしている製造会社があり、社長自ら毎月足を運んでおられる中で、同様の方もいらっしゃるでしょう、という高橋さんからの切り返しのお言葉に納得されたことが懸念を払拭する結果に繋がったようです。
先方の社長に対する高橋さんの信頼度の高さに加えて、こうしたフォローアップを随時して頂いたことが、この年齢で初めての転職を可能にした背景であると、本当に感謝しております。今回の転職成功の背景には縁の世界を感じますが、それ以上に、転職カウンセラーの高橋さんという存在が全ての鍵であったと思います
初めての転職活動に至るまでには、新入社員で入社以来25年の中で海外赴任3回を経験し、海外営業職で会社を背負って立つ自負心と責任感、当時同期で1番の出世に至る実績に対する自信を挫かれたきっかけがありました。
3回目の海外赴任を終えて日本に帰任した際には、ちょうど社長交代で会社のマネジメント体制が大きく変わり、私自身が気付かないまま “旧体制派” とのレッテルを貼られての激動の中にアサインメントを受ける状況にありました。赴任先から当時の日本人赴任者は全員帰任か転任となり、良くある話で、冷遇される結果に直面していましたし、その中にあっても、赴任前と同様の課長職をもらえただけでもありがたい話ではありました。
新体制での国内勤務には、主流派からの疎外感があるものの、それでもこの会社でまだ頑張る思いが強く、転職活動には及ばずに、社内でできることに注力する日々が3年過ぎました。今にしてみたら、日本に帰任後直ぐに転職活動を始めていたら、また違った展開になっていたとは思いますが、その時点で(株)エリートネットワークの高橋さんに巡り合えていたかどうかは、甚だ疑問ではあります。更に、転職に対するノウハウや、準備が全くなかったということも、転職活動に踏み込むことに思考が回らなかった背景でもありました。
3年が過ぎた頃に、当時の役員との職制面談があり、事業構造改革について何でも思うところを言ってくれ、という場面がありました。そこで促されるがまま、自分の考える改革を、思いの丈をぶちまけたのが、職制を外されたきっかけになったこと、職場を変わる結果になったこと、これが思いもよらずの転職への転機に繋がりました。新体制の中では、社長の方針をそのまま行動に移すことを何より求められ、私自身が培ってきた独自の視点、改革への行動は、 ”旧体制派” の象徴として疎まれる状況には変わりはありませんでした。
これが社内の閉塞感の原因ともなり、当時からも転職者が増加する状況になっていましたが、まさか自分もその立場に立たされるとは、安住の地から突然振り落とされる気持ちになったものです。ここから、転職サイトに登録し、外の会社に移ることを考え始めた訳ですが、それでも、会社に対する熱い思いは捨て切れず、中途半端な気持ちで転職活動を始めた故、その内容も今にして思えば全くの的外れの内容だったと赤面することが多いのも事実です。
新しい職場での再スタートを切りながら、転職活動に思いを繋げる中で、本当に転職すべきなのか、このまま現職で頑張るべきなのか、この選択への迷いは最後の最後まで付いて回りました。最終的に決断に至った背景には、家族との生活をどうするか、ということと、自分自身のやり甲斐、生き甲斐をどこまで求め、実現するか、この2点でした。
私が再婚した相手が東京勤務で、私が長野県勤務である以上、結婚後も別居の生活が続いておりました。この先、長野県に永住し、現職のまま定年を迎えた時に、再婚相手との生活基盤を60歳過ぎた後も確保できるのかどうか、これから子供を作り、家族を養っていくには、70歳まで働ける基盤を確立していく必要があること。これを実現する術を、現職の中で本当に確立していけるのか、新体制の中で、言われたことだけを忠実に実行していくことが求められる中で、定年退職後に次の生活基盤を得られる人材にレベルアップできているのかどうか、大きな疑問と焦りを日々感じておりました。
それでも、新しい職場には、昔からの海外営業の先輩が部長職且つ上司でいて下さり、何かとサポートを頂くことが、少しでも安住の地に繋がっていた状況にありました。会社が不満で、職場に合わなくて、などということがあまりない中で、本当に自分の人生をどうすべきか、ということを考えられたことは幸せなことだったと思います。一方で、この安住の地に甘えて、人生の決断をズルズルと先延ばしにしていたことが、転職活動を曖昧にしていた最大の原因にもなっていました。
そうした状況が半年経った頃、52歳を超えた会社の先輩が転職に成功し、退職するお話を伺うことができました。そこで衝撃を受けたのは、転職活動は必ず成功する。そのきっかけを如何につかむかは、縁の世界もあるし、転職をサポートしてもらえる、人材紹介会社の担当の方に巡り合えるかどうかにもかかっている、というお話でした。それ以上に、何故転職するかという根本には、自分のやり甲斐、生き甲斐をどのように求め、活かし、獲得していくかという、その人の生き方そのものの行動に直面したことがありました。
このまま見た目安定している会社に定年まで勤め、言われたことをやっていれば給与がもらえることは、会社が存続する限りは、ある面ではこれほどありがたいことはない世界ではあると思います。一方で、そこから離れ、自分の生き甲斐、やり甲斐を求めることの意義、そしてそれを実現する行動力と決断、そこから始まるリスクとの戦い。これをどのように理解し、先のことを決めていけるか。会社の先輩の話は衝撃的であり、また50歳を超えてのその行動には学ぶことが非常に多いものでした。
自分のことに照らし合わせて考えた上で、東京で家族との生活基盤を確立し、長く働ける準備を進めると共に、自分のやり甲斐、生き甲斐に繋げていく。これには、今の会社の定年までには描くことは難しく、やはり転職という方法によって他の会社で見出していくしかない、という思いが決断となり、そこから真剣な転職活動が始まりました。最初に転職サイトに登録してから、半年後の話ではありました。
この年齢での転職は難しいとはよく言われているものの、その実感が沸いたのは、実際に転職活動を始めて、面接を受け、採用に至らなかったことが繰り返された辺りからでした。最初に登録したサイトから、立て続けに採用面接の依頼が来て、来るもの拒まずで、本当にその会社に入りたいか、会社や職種の検討もあまりしない中、面接に臨みました。その数4社。海外経験を活かせるものではあるが、先方の求める人材に対する私の経歴、要望が本当に合うのかどうか、試行錯誤そのものだったと思います。自分なりに書いた職務経歴書についても、本当に自分のことを分かってもらえる内容であったのか、最初の頃の物は、相当レベルの低い内容であったと赤面してしまいます。
人材紹介会社の方との面談を電話で済ませ、それから紹介される会社の面接に臨む電車の中で、先方の企業の資料を見て勉強し、転職理由、志望動機、採用後の意欲などのストーリーを組み立てていく。本当にその会社で働きたいのかどうかより、まずは面接を通ることが先決とのアドバイスに従い、準備して行ったものでした。1社については、自身の経歴にない生産管理職募集であったため、職務経歴書をリクルートの方に言われるがまま書き換え、募集案件に沿う内容に仕立て上げ、面接に臨んだものでした。結局、当時4社受けた内、最終面接まで行ったのがこの畑違いの生産管理職で、面接を繰り返すうちに、君は営業職ではないのかという指摘を受けて、海外営業職での面接のやり直しに至りました。そこでの最終面接官である、直属の上司になる方は明らかに私よりも若い方で、その面接結果は、職場に合わないとの理由により不採用となりました。この間2ヶ月、ここに至るまでに、転職紹介サイトに載っている募集案件にも多数応募を続けたものの、1社の面接依頼の機会も得ることはありませんでした。
それ以降は、人材紹介会社からの面接依頼は一切来なくなり、自分で応募する募集案件にもきっかけを見出すことなく、月日が過ぎていく状況でした。3ヶ月目を過ぎた辺りに、登録している人材紹介会社の別の事務所から、横浜での外資系の採用試験の案内が来ました。主に医療関係の計測機器の北アジア販売統括マネージャー職とのこと。この面接には気合を入れ直し、一次を突破した後の2次面接では、アメリカ本社のVPとシンガポールの地域本社のGMとの英語での面接をそれぞれ1時間毎行い、好感触を得ました。面接後にはVPから次は会社でと握手をされ、最終面接は形式的なものを社長とするだけ、という打診がありました。その後、結局進展がなく、後で聞かされたのは、外資系本社で日本市場への投資見直し、取り止めが決まり、今回の採用ポジションは延期するとのことでした。本当かどうかは定かではないものの、採用されなかったことは事実であり、その後の転職活動には身が入らず、上述のような会社の先輩の転職成功を目の当たりにするまで、迷い続ける状況に陥りました。
サイト上での募集案件にただ応募するだけでは、何の進展もない。これは再び転職活動に賭ける決心をしてからの教訓です。会社の先輩の転職成功の話を真摯に受け止め、職務経歴書を分かり易く書き直し、人材紹介会社への登録を積極的に行い、そこから紹介頂ける案件の機会を増やす努力を今更ながら始めた頃には、活動開始から早半年が経っていました。相変わらずサイト上の募集案件に応募しての面接依頼は進展がほとんどなく、1社面接に至ったものは、実際に行ってみると、全く私のキャリアとは関係ない職種で、何で来たの? と言うレベルのものでした。それでも、新たに登録した人材紹介会社からの面接依頼で、何社かの面接に臨むことができ、その中で1社最終面接に漕ぎ着けた会社がありました。現職に近い同業他社ではあるものの、色々企業研究を進める内に、明らかにマネジメント体制的に会長1人の独裁的な組織状況から、悲鳴のような社員の叫びが様々なところから聞こえてきました。この会社からは上位の部長職で採用通知を頂きましたが、結果的に私自身の転職に至る本心から隔たりがあり、必ず後悔すると思い、ご辞退させて頂きました。
この会社の他にも頂いた面接依頼は5社となったものの、最終面接にまで至ることなく、決め手に欠ける状況が続きました。それらの面接を紹介頂いた人材紹介会社の方々とは、私が長野県勤務ということがあり、電話面談による会話しか持つことなく、あまり有効なコミュニケーションを最初の段階でとらせて頂くことができなかったとの後悔があります。そうした中、親しくさせて頂いている会社の方から、(株)エリートネットワークの転職カウンセラーの高橋さんをご紹介頂き、まずは面談しましょうと言う機会を与えて頂いたのが、転職活動を始めて9ヶ月が経った頃の話でした。
ここで前述のカウンセリングの機会を頂き、そこからとんとん拍子で内定を受ける経緯は、正に縁とサポートのお蔭であると実感している次第です。
今迄転職の経験がなく、年齢的な問題があったものの、結果的に内定を頂いて転職に漕ぎ着けられたのは、(株)エリートネットワークの高橋さんのお蔭だと、改めて感謝の思いが強くあります。
真剣に転職に際して準備し、臨んでいるかという基本的なスタンスに加えて、人材紹介会社の方による新しい会社との橋渡しや、人物紹介、推薦、サポートに至る全ての流れが、縁という機会を生んでくれている、と確信しました。転職に際して、次のステップのスタートラインに立てることに期待と不安が入り混じっている状況ですが、転職に際してだけでなく、その先もフォローを継続される高橋さんのお力添えを心強く感じながら、次のチャレンジへ向かう所存です。
以上