念願のメガバンクへ転職成功

念願のメガバンクへ転職成功

No.65
  • 現職

    メガバンク

  • 前職

    都市銀行→大手監査法人

東田 一郎 氏 38歳 / 男性

学歴:一橋大学 商学部卒、公認会計士補

オヤジ、懲りずに転職を欲す

精神的な成長はさて置き、肉体的な加齢は容赦なく進んで行くもの。二度目の転職を決意した昨年末、大して誇れるキャリアやスキルも獲得できぬまま、私は既に38歳という立派な中年オヤジとなっておりました(ちなみに独身)。



「ウツだよなぁ……」

対外的には予定通りのキャリア・プランなどと見栄を張ってみたものの、現在の中高年の転職市場は「絶対零度」の極低温が身を切り裂くような状況です。頭の片隅で自分の市場価値というものを冷静に推計してみるに付け、正直「こりゃ、相当キビシイことになるかもなぁ」とエントリー前から既に若干負け戦の気分でした。

はじめての社会人/銀行編

自分の職歴のスタートは平成2年、人並みよりはやや遅れて大学を卒業し、(合併で)今はなき都銀上位行の一つに就職しました。時あたかもバブル末期、同年代の方はご存知でしょうが、当時の新卒就職市場は今では想像もできないような超売り手市場でした。酒池肉林(?)の様なリクルート接待を当り前の様に享受し、元もと出身大学が金融や商社といった業界への就職に強かったこともあり、大勢に流され「給料は良さそう」といった安直なイメージの洗脳を受けて、大量採用路線を突っ走る都銀へと就職したのです。



入行すると、港区内の有名私学・元祖有名ラーメン店の至近にある支店へ配属されました。そこで融資担当を2年弱勤めた後、銀行調査部とシステム系の関連会社を母体に立ち上げた、設立間もない系列シンクタンクの調査部へ出向となりました。母体が銀行調査部とはいえ、当時私が配属されたセクションでは試行錯誤を重ねながら業務スキームをビルド・アップしてゆく段階にあったため、そのドサクサの中、新米セクター・アナリストとしては割と伸び伸び仕事をさせて頂いたという記憶があります。



しかし、私が気ままな(?)アナリスト稼業を謳歌していた正にその時期、バブルの崩壊と共に、近年の金融業界の激動の幕開けを告げる不良債権問題に火が付いていました。そして着任から既に4年近くが経過し、不遜にもアナリスト業務に対して「飽き」を感じ始めていた頃、私は銀行へ呼び戻されました。縮小均衡に陥った法人融資に代わって、住宅ローンがデフォルト懸念の少ない高収益商品として銀行の戦略商品となり、官庁・関連会社等への外部出向者、留学派遣者などの「遊学」組が呼び戻され、当時猫の手も借りたい程忙しかった支店の住宅ローン拡販業務の支援を仰せ付かったのです。本店から支店への行内出張という形で約半年間、各支店を1〜2ヶ月のサイクルでジプシーの様に渡り歩きました。臨店先の支店では(しょせんは自分も「お客様」なので)、支店の皆さんのお心遣いもあって、楽しく住宅ローンのお手伝いをさせて頂くことができました。同時に「事件は現場で起きているんだ!」という「当り前」を久方振りに目の当たりにして、これ迄の自分の物見遊山的な仕事に恥ずかしさを覚えたことを思い出します。



そして各支店を転々とする中…、以前なら有り得ないはずの勤務先の都市銀行の破綻という問題が現実味を帯びて語られ始め、ひるがえって、これ迄の自分の正味のキャリア、スキルの心許なさを鑑みるに、若気の至りながら「もし、銀行がアボーンしたら、このままではワシ、ピンで喰って行かれへんやん!」との不安が募ってきました。その後「もっと世間に『公認』される形でハク付けな!」、「もう30歳やし、河岸を変えるんならタイム・リミットやで!」という勝手な三段論法で自分の気持ちを整理した上で、遂には無謀にも「一度退職して、大型の国家資格を取ったろ!」という安直な転進を決意するに至ったのです。

会計士(補)目指して/無職・泥沼編

以上の経過で、各行の住宅ローンの拡販競争も沈静化した平成8年の5月末、私は6年強勤めた銀行を退職し、資格浪人となりました。特にカネのかかる趣味がある訳でもなく、独身かつ実家住まいでもあったため、数年分の学費と一人分の生活費ならば何とかなる程度の貯えはありました。目標を公認会計士(第二次試験)と定めた訳ですが、それは多分に「弁護士か会計士か」等という資格の知名度をベースに「会計士の方がこれまでの職歴とマッチしていて、簡単に合格できそう」といったレベルの動機に基づくものでした。



そして更に破廉恥なことに、身の程知らずの私は「会計士なんぞ2年位準備すれば充分に一発合格できるだろう」とタカをくくっていました。が、現実はそんなに甘いはずもなく、論文式試験で二連敗を喫します。既に銀行を退職してから3年を経過しており、このままでは再就職も難しい状況でした。目減りしてゆく貯金と髪の毛、溜まっていく一方のストレスと年齢に悶絶しながら、「これはもう合格するまでヤルしかない。泥沼だぁ」、「認めたくないものだな、自分自身の若さ故の過ちというものを(笑)」という感じでした。しかし翌平成12年10月、手応えとしてはこれまでの受験の中で最悪という出来にも拘わらず、幸運にも3回目の受験でようやく論文式試験に合格することができました。足掛け4年半の浪人生活、既に35歳になってしまっていました。

歳を取ってても新人扱い/監査法人編

公認会計士第二次試験は簿記、原価計算等の計算科目が合格のための戦略科目とされているせいか、司法試験などに比べて合格者の平均年齢が25〜26歳と若く、歳を取れば取る程合格も(合格後の)就職も難しくなります。合格時35歳というのは、会計士補の中でも充分に「超高齢者」扱いされる年齢です。従って監査法人への就職についても苦戦が予想されましたが、私の場合、またしても就職バブルという「神風」が吹いたのです。当時の会計士業界はITバブルを背景としたIPOブームの渦中にあったこと、相次ぐ会計基準の改変、新設で制度会計が複雑化し、監査部門で人手不足が生じていたこと等により会計士補の就職市場は完全な売り手市場でした。そのお陰で、私は高齢者、かつ諸般の事情から他の合格者よりも一ヵ月半程遅れて就職活動を始めたにも拘らず、大手と言われる監査法人に潜り込むことが出来ました。



監査法人で当てがわれた仕事は、誰もが社名を知るような大企業というより、むしろ中堅・新興企業に対する法定監査、任意監査・公開支援業務等が中心でした。半端な会計士より遥かに経験・知識が豊富な経理・財務担当者の方に「すべて」の資料をソツなくキレイにご用意頂ける、いわゆる「フツーの大企業」の法定監査を充分に堪能することなく、自尊心に反比例して愚直な作業を嫌う年下の上司(会計士)の下、月次決算もままならない会計原始状態のクライアントの現場で、先方の社員の方と一緒に「何でも屋」的な仕事に従事したのです。しかし、その経験は、決して悪いものではなかったと思っています。

卒業試験前に退学?/再び転職へ

さて、色々と履歴書を汚しながらやっとのことで監査法人勤めの会計士補となった訳ですが、もとより監査業界でずっと喰っていこう等とは考えていませんでした。また時が経つにつれ、安直な決心で銀行を退職したことを少なからず後悔している自分に気付くと共に、色々と批判の多い銀行業界ではあるけれど、自分が第三者の視点で眺めた時に、その人材の優秀さを再認識する点も多々ありました。そこで、最終試験である三次試験の受験資格(2年間の実務補助経験が必要です)を得、論文式試験が終了した昨年末、「できれば再び金融の世界で…」という身勝手な夢を抱きつつ、監査法人を退職する決意を固めたのです。



退職時期は翌年の1月末としました。まだ論文式試験の合否も発表されておらず、たとえ論文式に合格しても、次に口述式試験を受けなければならないので、三次試験の不合格リスクを払拭できませんが、監査法人の業務計画が暦年の半年周期で設定されている点、退職時期を遅らせる程年齢的に不利になる点、できれば4月の新年度より新しい職場での生活をスタートさせたいと思っていた点等に鑑み、退職日を1月末としました。

図々しくも謙虚に行こうぜ!

ここで話が冒頭に戻る訳です。

「帯に短し襷に長し」の半端なキャリアやスキル、しかも中年、でも望みはあると信じて退職を決めてしまった……。



そこで私は心の中で、精神衛生の保全も兼ねて「図々しくも謙虚に行こうぜ!」という転職スローガンを掲げました。まず、所詮は成り行きの積み重ねでしかないこれ迄の人生の履歴を「ありのまま」に受入れて総括し、そこから「地に足の付いた」将来への前向きなモチベーションを引き出そう。採用企業にとって我々転職希望者は外部の異分子に他なりません。かかる異分子を組織内に招き入れることに伴う様々なリスク、そして〇にしろ×にしろ、我々を評価すること自体が採用者自身の大きな責任となり得ることについても誠実な感受性を働かせよう。転職するのが我々のご都合主義であるなら、中途採用を行なうのも企業の都合次第。経営環境に応じて採用のハードルが高低するのは当然のこと。厳しい評価、時に理不尽な評価を受けても、それを「一つの現実」、「天の声」として受け止め、転職活動の肥やしにして行くタフネスを養おう。そして、転職活動を通じて出会う様々な一期一会の厳しさ、有り難さを噛みしめつつ、なお心の奥底に残った「本音のモチベーション」(これが一番強力な転職エネルギーとなる)には、ギリギリまでこだわろうと。



以上のスローガンを掲げ、願わくは日系の大手金融機関にて、これ迄の経験や資格を活かし得る産業・企業アナリストとしての職を得るべく、私は1月の半ばより転職活動を開始しました。

偶然の幸運はエリートネットワークより

当初私は無謀にも(?)、公募案件へのエントリーを転職活動の中心に据えようと考えていました。しかしながら、それでは自分の希望に適った案件がほとんど出て来ないばかりか、よしんば出物があっても非常に高倍率となり、年齢面で不利な扱いを受ける可能性も高くなるため、早々に転職エージェントにお力添え頂く方向に方針変更しました。



ただ、はなからゾンザイな扱いを受ける予感がしたので、大手のエージェントにお願いするつもりは全くありませんでした。実際、ものの試しに一社だけ外資系の比較的大きなエージェントにも登録しましたが、案の定一ヵ月半以上も放置され(自分も何ら督促をしなかったのですが)、今回の転職活動が実質的に終わった段階で、母校の先輩だと名乗るコンサルタントから「打ち合わせをしたいので連絡を乞う」とのメールが届く有り様でした。



ただしこれも己の浅学非才の故か、正直申し上げれば(株)エリートネットワークさんとの出会いは全くの偶然からでした。私がお世話になった転職エージェントは、上記の外資系を除けばエリートさんともう1社の合計2社、エントリーした企業もエリートさんで1社、他社で1社の合計2社のみですが、登録及び案件で先行していたのは他のエージェントでした。そのエージェントではベテラン・コンサルタントの方のご尽力で某総合シンクタンクのコンサルタント・アナリスト職をご紹介頂き、面接等も前向き進行中だったのですが、望むらくはメガバンクでのアナリスト職をと、図々しいことを考えていた私は、何とかそれに類する案件にエントリーさせてくれるエージェントはないものかとネットを検索していました。



そうしたら、あるじゃないですか。株式会社エリートネットワークなるエージェントのHP、「今週の新着求人情報」の「金融スペシャリスト関連職種」欄をクリックすると、「会社名;大手都市銀行、募集職種;事業アナリスト」と!



僥倖でした。速攻でエントリー・データ等を準備して「ダメもとでもGO!」とばかりにエリートさんへメール登録の申込みを行ないました。1日、2日の時間が待てなくて「早く面談して下さい!」と督促の電話も差し上げました (笑)。でも本当に幸運だったのは、希望の出物ということもさりながら、今沢雄一郎さんという若手の優秀なカウンセラーさんとのご縁を頂いたことだと思っています。今沢さんは超一流国立大学の理系学部のご出身で文字通りの「エリート」なのですが、そんなことは歯牙にも掛けない方です。理系出身者ならではのクールな現実認識に裏打ちされた優秀な頭脳を、ウォーム・ハートをもって転職希望者のために酷使されているハード・ワーカーです。面談後、最初に頂いたメールは午前1時半に会社から送信されたものでした。



1月20日に今沢さんと最初の面談の後、同30日に第一回会社面接、2月9日に第二回会社面接、同17日に第三回最終人事面接と、今沢さんにはキビキビと段取りを仕切っていただきました。実はこの案件、当初銀行が想定していたスペックや採用形態等が私のそれとはかなり異なっていました。今沢さんご本人は「私はなにもしてません」とご謙遜なさいますが、スペック違いの私を「それでもこのオッサン、こういう使い道もあるのでは?」と銀行に対して強力にプッシュして頂いたであろうことは想像に難くありません。その甲斐あってか最終面接の翌日の18日、当日は公認会計士第三次試験の口述式試験の試験日でもあったのですが、面接で試験官の1人にコテンパンにのされ、「落ちたやもしれん」と意気消沈して家路につく私の携帯に、今沢さんからのホット・コールが入りました。「東田さん、良い知らせです。銀行から内定出ました!」



その後、何とか口述式試験の方も合格と相成った3月の終わり、諸々の準備や手続きに追われながらこの原稿を書いています。この駄文をご高覧頂いた皆さん、「こんなアホなオッサンでも何とかなるんだな」と自信を付けて頂けたのなら幸いです。繰り返しになりますが、こんな私が実質1ヶ月程度でメガバンクへの転職に漕ぎ着けることができたのは、ひとえに(株)エリートネットワーク様との縁を一期一会の幸運として大切にすることができたからに他なりません。



最後にこのHPにアクセスなさっている、特にオヤジな皆さんへ。

『いい歳になっても熱くて、タフで、そして謙虚なあなたに、エリートネットワークとの縁(えにし)を通じて、素敵な出会いが訪れることをお祈り申し上げます』

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