一級建築士、一部上場中堅機械メーカーからの指名スカウトを受けて転職。

一級建築士、一部上場中堅機械メーカーからの指名スカウトを受けて転職。

No.722
  • 現職

    東証一部上場 中堅機械メーカー  機械据付施工管理技術者 (管理職)

  • 前職

    中堅ゼネコン 支店建築部 工事管理
    大手不動産会社系 管理会社  修繕サポート
    外資系 機械器具メーカー  工事管理課 新設部門 部長、メンテナンス部門 課長

作間 和洋 氏 46歳 / 男性

学歴:工業専門学校 建築デザイン科 卒
一級建築士
監理技術者資格者 (機械器具設置工事業)
設備設計一級建築士

約30年を振り返って

この度、(株)エリートネットワーク高橋さんに多大なるお力添えを頂き、転職することを決意致しました。私にチャレンジの機会を与えて下さり、本当にありがとうございました。
今回は高橋さんのご依頼もあり、私の半生について振り返ってみることにしました。
書き出した時点では大作になる予定です。

私は1967年生まれで今年47歳になります。手記は私の高校3年生時代から振り返ることにします。

私は中くらいの才能を持ち、中の下の努力しかしない、都立高校に通う平凡な高校生でした。人並みに大学受験をしましたが、何の努力もせず、人並みの能力しか持たない私は当然ながら大学受験に失敗しました (記憶では3校程度受験しました)。

大学を受験する際に父親から 「いい加減な気持ちで大学受験をするのであれば、受験は1回しか認めない。」 と言われたせいもあり、浪人を選択することはせず、大学への進学はあっさり止めました。この選択は父の発言からきたものではありますが、あくまでも自分で決断したものです。しかしながら、今となっては少々後悔もしております。もし仮に1年浪人して (場合によっては何年か浪人して) 大学に進学していたら、当然ながら全く違った人生になっていた筈です。

高校卒業後、私は当時の言葉で言う 『ぷー太郎』 になりました。要は親のすねをかじったままの気ままなアルバイト生活です。両親には今まで聞いたことはありませんが、どのように思っていたでしょうか……。ただ、私も何の見通しもなく 『ぷー太郎』 を長く続けていく気はなかったので、1年間のみと期間を区切ってアルバイト生活をスタートしました。せっかくの無駄な1年間なので精一杯有意義に使おうと思いスタートしたのですが、結果はレストランのウエイターをするだけの日々で1年間が終了してしまいました。農場で住み込みの生活をするなどの構想や希望はあったのですが……。

翌年、建築デザインの専門学校に入学しました (1987年)。 偉そうに言っていますが、まだまだ親のすねかじりです。高校在学中、受験に失敗するであろうことを自覚したうえで、アルバイト生活1年間の翌年には自分が将来進みたい方向の専門学校に入学したいと考えていました。私としては子供の頃からの夢である設計事務所の先生になるか、その当時流行っていた (?) 旅行関係に進むか悩んだうえでの選択でした。

のんびりとした専門学校 (自分のことを棚に上げたもの言いです) でしたが、生涯の友と出会い、また、一級建築士資格試験の受験条件を得られたことは私の将来にとってものすごく大きなプラスになりました。
設計事務所の先生を夢見て専門学校に入学したものの、卒業が近づき、就職を現実のものとして考えた際に、設計事務所の給料の安さと門の狭さから、その夢はあっさりと選択肢から除外し、学校の推薦があれば絶対に合格できるはずの中堅ゼネコンの入社試験を受けることにしました。ただし、学校推薦を頂く条件として、入社後は工事管理の部署に配属されることが決まっていました。

学校推薦があったため試験は面接のみで、当日は私ひとりのための試験のようでした。面接終了後、学校に帰るには少し早く、もったいないと余計なことを考えた私は映画を見てから帰校しました。ところが帰校するよりも早く学校に合格の知らせが入っており、あの日はかなり焦ったことを覚えています。
私は声が大きく、ハキハキ喋ることができ、高校生の頃は号令係に指名され、専門学校の頃は学級委員長をしておりました (ちなみに当時のあだ名は 『委員長』 です)。そういったことも起因したせいか、ごくあっさり社会人としてのスタートラインに立つことが出ました (現在ではあいさつ番長を自負しております)。

中堅ゼネコンでは横浜支店に配属され、横浜市 中区 関内で事務所ビルの建築施工を管理する業務に就きました(1989年)。 その現場はJVであり、私が所属する会社以外の方も2名おりました。同じ会社の人間だけでなく、違う会社の方々の違ったものの考え方に触れることができ、社会人生活の最初にこのような環境で仕事ができたことは、とても素晴らしい経験だったと思っています。

当時、先輩たちから教わったことのうち、今でもとても強く印象に残っていることがあります。
1. 設計事務所はものすごく偉い。しかし、施主はもっともっと偉い。
2. どんな形であれ絶対に現場は終わる。終わらない現場はない。

今でも思いますが、これらの言葉は真実であり、とても深い名言であります。特に 『絶対に終わる。』 は、私のとても好きな言葉です。どんなに辛くても、どんなに投げ出したくてもこの言葉を信じて仕事をしてきました。そしてその言葉に間違いはありませんでした。現在まで私が携わった現場において、とても厳しい状態を経験したこともありましたが、結果においては何とか納めることができました。

その後は、横浜市 戸塚区、平塚市と約一年ごとに神奈川県内の複数の現場に配属され、共同住宅などの工事管理を行いました。

入社当時の私は、両親や弟たちと共に八王子市に住んでいました。工事現場の朝は非常に早く、帰りも遅く、且つ、休みもあったり、なかったりの生活が続いていました。そんな中、専門学校時代の友人と飲んでいた際に、一緒にアパートを借りて実家を離れようとの話が盛り上がり、すぐにその友人任せで実行に移しました。中堅ゼネコン入社2年目でした。友人の実家がある横浜市 港北区 綱島に私たちの住み家を決めました。八王子よりは若干ですが職場に近くなり、そして、そのアパートには専門学校時代の友人が転がり込んできたり、みんなで集まるスペースとしてもかなり重宝されていました。
両親からの独立や、一人暮らし (実際にはふたり暮らしでした) には憧れがありました。そして、横浜市の綱島で友人たちと一緒に過ごした時間はとても楽しく良い思い出となりました。

横浜支店にていくつかの現場を竣工させた後、東京支店に異動になりました (1992年)。業務は同じく工事管理業務であり、品川区 北品川の複合施設に配属されました。そこで私はここからの数年間を導いて頂くことになるKU所長と出会いました。KU所長は私を公私共に可愛がってくれました。その後の私の人生の大きな方向性を決める重要な方であります。そして、KU所長にはおいしいものをたくさん食べさせて頂きました。

KU所長と二つの現場をご一緒させて頂いた後、私は現場での工事管理業務を離れ、支店でのデスクワーク業務をする部署に異動となりました。与えられた私の業務は受注前案件の工事計画等を作成することでした。あまりにも突然のような印象を受けましたが、この異動は、会社の業績の不振により希望退職を募った際の欠員を補うための補充でした (1994年)。

現場勤務から店内勤務になったため、労働時間が短くなりました。生活のサイクルが安定したことにより、『ここで一気に一級建築士の資格を得るべき』 と考え、自力でコツコツというタイプではないので、週に2回程度学校に通うことを決意し、そのための投資を行いました。私の投資はなかなか効率が良く、1年間の努力により学科、実技共に同じ年にパスすることができました。自分のことながら本当にラッキーでした。

無事に一級建築士資格を取得し、店内勤務が3年目になろうとしていた頃、KU所長が退職されることを耳にしました。私は当時27歳の若僧でしたが、店内での工事計画の業務は会社の本流とは思えず、また、今にして思えば情けない話ですが、2年間現場から離れたことにより、同僚たちとのブランクを補えないのではないかと悩んでもいましたので、KU所長がどのような職に就かれるのか知りませんでしたが、漠然と 『俺も連れてってくれないかな〜』 などと、甘いことを考えていました。
ところがそんなある日のこと、偶然会社のエレベーターで再会したKU所長に、その場で突然転職のお誘いを受け、大手不動産会社の子会社である管理会社に転職することになりました (1996年)。

話が決まると 『すぐに会社に来い』 と言われ、6月末に退社、7月1日に管理会社に入社しました。
当時は退職金を50万円程度頂いた記憶があります。将来のためを思いノート型のPCを購入しました。ただ私の考えは水たまりのように浅く、建設会社の夏のボーナスを貰えない、且つ、転職先の管理会社のボーナスも頂けないタイミングで転職してしまいました。小さなことかもしれませんが一応考慮すべきポイントだったと思っています。

管理会社では、会社が業務委託を受けている管理組合様のご要望により、建物修繕に関する相談と工事実施の際の工事管理や工事監理等の業務を行いました。そもそも管理会社の収益は管理組合様との業務委託が本業であり、私の部署の業務での収益は会社の本業からは離れているため、かなりのんびりしていました (先に記載した私の価値観と矛盾があります)。しかし、私にはかなり適性があると思われ、且つ、給料も十分に頂くことが出来ました。

順調であったはずの管理会社での業務ですが、転機は突然に訪れました。ある日突然、KUさん (部長代理) の 『リニューアルのマーケットは将来性が非常に高い。独立して会社を作るから君も来い!』 という一言により、1年で同社を退職することになりました。
友人等からも、もったいない等と色々なアドバイスや忠告を頂いたのですが、師匠であるKUさんから 『来い!』 と言って頂けたのですから、私の返事は 『はい!』 しかありません。
我ながら男らしくて結構かっこいいと今でも思っています。
話は変わりますが、私は管理会社である女性に出会い、時期は少し先ですが、めでたく結婚することができました。

独立し立ち上げた会社は、恵比寿に事務所を構え、KUさん (社長) を含め4名でスタートしました (1997年)。KU社長の知り合いなどから情報を集め、細かい仕事まで手を伸ばしましたが、残念なことに業績はすこぶる不調でした。
この会社は約1年間で業務を縮小することに決定し、2名を残し2名は退職することになりました。退職する内の1名は私です。
退職するにあたり、KU社長がご尽力下さり、私の次の就職先を探して下さいました。それが現在の勤め先です。

恵比寿の会社の退職日が1998年9月末で、現在の会社の入社日が10月1日でした。なんと私 (達) は、その年の9月19日に結婚し、ハワイに新婚旅行へ行き、数日後に新会社へ入社という、男としてとんでもなく情けない状況でした。恵比寿の会社がうまくいかず、業務を縮小し、転職しなければならない私は、現在の奥さんに 『そんな訳だけど、結婚してくれますか』 と聞きました。答えはYESでした。おかげ様をもちまして、私達は現在も幸せに暮らしています。

現在の勤め先は、機械器具の設置及びメンテナンスを行う会社です。全国展開している会社の東京支社に配属になり、私は設置 (新設) の部署に配属になりました。建築の知識があるためお客様や建設会社などとの納まり等の打合せや、それまでの経験を踏まえたお客様対応等により、とても大変でしたが、何とか業務をこなすことができました。

会社からの信頼も得て、大きなプロジェクトも任せて頂き、数多くの現場を無事に竣工させました。私の業績に対し、『マン・オブ・ザ・イヤー』 の賞を受賞したこともありました (自慢です)。
入社数年後には工事管理部門の課長となり、その後、東京支社において新設部門を統括する部長となりました。部内の15名を統括する重い職責を遂行する立場になったのは感慨深いものでしたが、当時の私は挫折を知らず、自分の力で何でもできると過信していました。会社の業績は順調で、とにかく私の前途には明るい将来が約束されていると信じ込んでいました。

その後私はとてつもない挫折を経験しました。

色々あった後、メンテナンス部門の一部を統括する仕事に配属されました。
新しい仕事は私にとって未経験であり、未経験でありながら、多くのメンバーを統括しなければならず、また、新設と保守の仕事の違いの大きさにとても衝撃を受けました。同じ会社で同じような社外での現場作業でありながら、これほどまでに業務内容やお客様との関係、そして、今までとは全く違うストレスを体験したことは衝撃以外の何ものでもありませんでした。苦しみと自分の不甲斐なさをいやというほど思い知らされました。

保守の仕事にも少しずつ馴れ (染まり?)、チームのメンバーにも助けられ、月日も経って、今までの業務に加え、改修工事などの業務も統括することになり、チームのメンバーも11名となりました。日々の仕事に追われながら、何とか業務を続けてきましたが、心では 『やっぱり保守より新設の仕事がしたい』 と思っていました。
私が思うに新設が好きな人間と保守を生業にしている人間は精神構造が違います。深く説明するつもりはありませんが、明らかに違います。会社にとって多くの利益を得ているのは保守であり、新設なんて金食い虫かもしれませんが (むろん尺度はそれだけではありません)、やっぱり新設の業務に就きたいと思っていました。

2014年2月のある日、(株)エリートネットワークの高橋さんからお電話を頂きました。
当然ながら高橋さんはプロであり、話は単刀直入で明確でした。

数日後、銀座の事務所にお邪魔させて頂き、お話をお伺いし、その場で私の気持ちは基本的には転職することを決意していました。
本年度は多くのプロジェクトがあるため、私の仲間が苦労することは重々理解していましたが、結局は私の将来にとってより明るいと思える方向性を選択することにしました。
4月初旬、ある程度立場のある私が、チームのメンバーや会社に退職の意思を伝えた際、話をしたすべての方がとても素敵に私の意思を尊重してくれ、7月末退職とさせて頂くことで合意できました。

今度の転職で私がお世話になる会社は5社目になります。かなり多くの転職を経験しましたが、どの仕事もとても充実しており、とても大変で、そして、とても多くの素晴らしい仲間や上司に恵まれました。私は本当にラッキーで幸せです。
次の会社と現在の会社は同業です。高橋さんからこのお話を頂いた際にも 『ご自分の年を考えてみて下さい。声が掛かるのが同業であるのは当然です。』 と言われました。
私も今年47歳になります。このお話を頂いたそもそものものきっかけは、機械器具会社で違う部署ではありますが、一緒に仕事をした仲間が、彼の転職先において私を推薦してくれたことによります。どこでだれが自分のことを見ていて、その方にどのような印象を持たれているのか、判らないものです。

過去の転職と違い、今回は同業への転職であり、私としてもそれなりの意地とプライドがあります。
私の仕事人生もまだまだこれからです。会社から 『もういらない。』 と言われないよう、精一杯努力して新しい会社にも貢献させて頂きます。微力ながら全力を尽くします。

縷々述べて参りましたが、この辺りで締めさせて頂きたいと思います。

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