東証プライム上場 大手精密機器メーカー 国内営業アカウントマネージャー
東証プライム上場 産業・家庭用ガス専門商社 経営企画部 調査担当
稲原 一星 氏 46歳 / 男性
学歴:大阪府立 三国丘高等学校 卒
大阪大学 基礎工学部 合成化学科 卒
TOEIC 825点
実用英語技能検定 準1級
高圧ガス製造保安責任者(甲種機械)
危険物取扱者甲種
貿易実務検定 C級
毒物劇物取扱責任者
ビジネス実務法務検定 3級
大学時代は理系学部にて化学を専攻し、4年生から有機化学の研究室で実験漬けの生活を送っていた。ほとんどの学生が大学院に進学し、教授推薦で研究職への就職を決めることが一般的であった風潮の中、朝から晩まで年中研究漬けの日々を過ごすよりも人と接する方が向いていると感じた私は自力で就職活動することを決意。ただ研究室で課される実験の傍ら就職活動するも、自己分析や自分のやりたいことがいまひとつ定まらないままであった。
放送局や新聞社などへの憧れからマスコミへの応募を中心に、メーカーなどへも応募していた。内定を得られないまま夏を迎えそうであったため、既卒での就職活動は不利になると感じ、十分な準備をした上で就職したい思いから、所属研究室に一年留年させてもらいたいと懇願し、認めてもらえた。
翌年まで自分のやりたいことを整理し、自分に合う業態は商社だと感じ、翌年は商社を中心に就職活動。エネルギー系の商社ともう一社別の商社から内定を獲得でき、エネルギー系商社への入社を決めた。
今後、成長が見込まれる水素という環境への貢献度が高い事業に関われる企業であること、また、総務人事部の採用担当の方から「ストレートの四年卒より浪人や留年経験者が多いから心配しなくてよい」と、一浪一留の私に温かい言葉をかけてくれたことが決め手となった。振り返ると、4年生を2度経験し、実験を2年分行うという密度の濃い(学費分以上の?)学生生活を送った。
入社時の配属は産業用ガスの技術担当職。ガス発生設備や配管工事などの現場での取りまとめやメンテナンス、トラブル対応など作業服を着用しての現場での職務が中心であった。入社1~3年目で担当していた設備ではトラブルが頻発し、その対応で精神的に相当まいった期間でもあった。振り返るとここでは20代にして、設備工事業者、配管工事業者、電気工事業者、物流業者さんなど40代~50代メンバーがいる現場を取り仕切る経験ができたことが良かった。
同じ部署で転勤を一度経験した後、同じ産業用ガスの分野でシンガポールでの営業職の機会を得ることができ、入社6年目で初の海外赴任。事業所は産業用ガスの充てん所兼オフィス。シンガポール人、マレーシア人、バングラデシュ人たち現地採用社員と日本人上司と私の30名規模。最重要顧客である日系メーカーへ週4回足を運ぶようなスタイルで、工事の取りまとめから法人営業を一人でこなすのにてこずった。初の海外勤務で英語でのコミュニケーション、現地社員の規範意識の低さが目立つ仕事ぶりに苦闘する日々を送った。仕事に余裕がなかったが日々刺激に満ちており、週末に日本人駐在員同士のゴルフや、頻繁に日本から訪れる出張者の対応などで、休養日はほとんどなかったと記憶している。
週末ゴルフや会食だけで終わらぬよう、ソフトボールチームに入って人脈を作ったことがシンガポール勤務時代も後の人生にも大きな糧となった。ソフトボールチームでの活動では、身分関係なく付き合いができることで、現地の社長を務めるような、日本では気軽に話などできない立場の方ともカジュアルな関係を構築でき、商談の機会を持てることもありグラウンドでの関係が仕事にも生きることを感じた。
シンガポールでの任務を終え、前所属産業用ガスの技術担当に帰任。シンガポール勤務時代に商社現法オフィスで原材料の営業職をしていた先輩社員の仕事ぶりに刺激を受け、貿易ができる原材料の営業部門への興味を持ち、異動を希望していたところ、実現。営業・貿易・仕入に携わった。
ここでは同じ会社であるにも関わらず、産業用ガスの部門との商慣習や雰囲気などのあまりの違いに転職をしたかのような心境となった。新入社員に戻ったかのような状態で日々叱責を受けながら、後輩からも教わり続けもがいていたところ、米国向け輸出案件を主に担当していたおかげもあってか、2年後に米国での部門責任者のポジションを得ることができた。
米国勤務では初めての部下、それも年次が上の米国人部下を抱えての米国での営業責任者としての職務に従事した。非常にチャレンジングでやりがいも苦労もあり、同日同じフライトで着任した先輩社員と苦楽を共にする生活を送っていた。時差の関係上日本の本社と朝晩のやり取りが発生するため、長時間労働を余儀なくされたが、裁量があり、自由度高く仕事ができる環境であった。ただ、シンガポール勤務時代と同様、日本からの出張者対応には、体力的にも精神的にも時間的にも負担が大きかったことは言うまでもない。
3年経過し、米国内で事務所の全面移転に伴いニュージャージー州からテキサス州へ大移動。ついてきてくれた現地採用社員もおり、当時の駐在員と現地採用社員の間での信頼感があったのだなと思う。
本場の米国での勤務を通じ、ビジネス英語力を向上させられたことは大いなる収穫であった。米国人社員には日本語を理解するメンバーもいたが、私は英語でのコミュニケーションに徹していた。米国人部下、米国人メンバーに接するにあたり私が心がけていたことは、報告・連絡・相談は一方向ではなく双方向であるというもの。部下に動いてもらった結果を受けてそのままにせず、日本本社に報告したらこういうフィードバックがあった、と逐一報告したり、米系顧客へ要求する場合、「こういう言い方はきつ過ぎるか?どういう表現がいいか?」などと相談したり、むしろ上司である私が部下に報告・連絡・相談することの方が多かったかもしれない。余談であるが、車社会の米国では長距離運転が当たり前。車の移動で米国人部下だけに運転を任せる駐在員もいるが、私はできるだけ交代で運転し、部下の負担軽減にも努めていた。
帰任後は海外案件を推進する組織の発足に伴い、そこへ異動。営業部門や海外事業所との協業を通じ、海外営業案件や海外プロジェクト案件を進める立場にあった。自由度高く動ける立場であり、BtoB案件、BtoC案件問わず様々な営業部門とのコラボレーションで営業案件やプロジェクトを推進できた。
この期間、燃料の長期輸入契約案件に3年ほど携わり、営業部門と共に海外仕入先との英語での輸入契約交渉に骨を折った。これにより交渉術や英文契約書の読解力、リスク分析力などの向上につながった。
豪州産健康食品の輸入スキーム構築案件では、輸入販売開始後に、私の人脈を活用して製菓会社とのクラウドファンディング企画を率先したり、漢方スタイリストとのコラボ食品を出したり、と宣伝活動にも尽力し、自分自身楽しみながら活動ができた。
5年後、寝耳に水で経営企画部の調査チームへ異動となった。同業他社の決算分析や動向分析、脱炭素に関連する動向など経営に資する情報収集、アウトプットに主に取り組んだ。それまでの、社外取引先や社内営業部署、海外事業所との協業を通じて自分が手掛けるものの価値を感じてもらい、それがモチベーションになっていたが、調査チームの職務ではコミュニケーションの範囲がほぼ部内に限られ、また自分の価値を外部に提供する機会もないことなど、実務面で不完全燃焼感が日々高まっていた。加えて、組織上、自分の裁量で進められる仕事がほぼなく、先輩社員、次長からそれぞれ指摘を受け修正を重ねた資料や原稿が、部長に一刀両断されるということが定常化しており、先が見えず、精神的にも虐げられていた。
緊急事態宣言下、主に在宅で勤務していたが、出社至上主義が強い部の風土、出社しないとこなせない種の業務が従来から続いている慣行にもなじめず、ネガティブな動機から転職活動に踏み切った。この時点で年齢は45歳。
きっかけこそネガティブな動機ではあったが、世の中には現状より自分の適性に合う企業・職種があるはず。部署異動を待ちながら惰性で目の前の仕事を続けるより、能動的に動いて自分に合う可能性のある外の環境に身を置きたい、というモチベーションを持って活動した。
転職活動の優先条件としては以下のとおり。
●実務面
英語圏での2度の海外勤務経験から、その経験を何らかの形で生かせること、前職のエネルギー業界や大学時代の専攻である化学の分野で、営業職や事業企画系の職種を条件に探すこととした。
●勤務形態
子供二人が小学校低学年であることと、妻の仕事復帰が決まりそう、というタイミングでもあったため、在宅勤務も併用でき、仕事と家庭とバランスを図れれば、とも思っていた。振り返ると16年間で7度の転勤を経験し、最短半年で転勤となったこともあり、向こう1~2年は勤務地を自宅からの通勤圏で転勤がないことを希望した。
●年収
「現年収と同水準を希望」とした。二人の子供が私立小学校に通っており、金銭面で余裕がないことから、年収が下がることは避けたいというプレッシャーもあったが、活動後半には、「現年収より少し下がっても、次年度以降伸びしろがあるなら構わない」とも表明した。
このような希望条件を持つ中、どれを最優先とするか、こだわりを捨てるならどれにすべきか悩みは尽きなかった。
転職サイトに複数登録すると、代わる代わる様々なエージェントから求人案件の紹介を受け、書類選考を進めてもらうも面接に容易にたどり着かない。年齢が40代半ばとあって、「マネジメント寄りの志向を持つ必要がある」「営業職を希望といっても、よほど業界での人脈があったり商権を持っていたり、専門性の強い商品を持っていないと難しい」など厳しい助言も受けた。また、実務は調査でありながら直近の所属が経営企画部ということで、経営企画部的職種の求人も多く受けた。とはいえ経営企画部での経験年数が短いことから、応募しても通過しないというのがお決まりのパターンであった。
初めて応募した企業はエージェントからの紹介によるヘルスケア企業の事業企画。経営企画部所属という点でマッチするかと期待したが、実務経験年数の少なさから見送りとなった。
一次面接が好感触であった日系商社。グローバルコンプライアンス職というややニッチな職種。一次面接を通過後、エージェントから役員二次面接対策の助言をいただき、また先行して小論文の提出もした段階で、一次面接後に受験した3種類の適性検査(パーソナリティー検査、SPI)でまさかの見送りという結果となった。SPIの難易度が高く、「皆さん難しく、全然できないので気落ちする必要ありません」とのアドバイスをくださったエージェントさんも驚かれる結果となった。それまで適性検査対策をほぼしていなかったことに焦りを感じ、対策を始めた。
ある外資系メーカーの営業職では、一次面接を通過。二次面接に進む前に、ミスマッチを防ぐための対面による1.5次面接を設定してくださった。そこではざっくばらんに細かい実務上の話や評価方法などお聞きでき、お互いの意思確認を充分できたと思っていたが、結果は見送りとなった。主たる理由は日系企業一社に20年勤務しているマインドセットがネックになったという。今まで経験が日系企業一社のみという点が凶と出た。
ある日系電機メーカーの関連会社に勤務する知人から、そのメーカーにて脱炭素推進ポジションにおける海外人材を求めており、興味がないか?と話を受けた。個別にその部署の方ともお会いする機会を設けてもらい、じっくり話をして私のキャリア、人物像を見られた上で、関心を寄せていただけた。その後、リファラル採用として正式に面接機会を得ることができ、その部署の方からも「採用するつもりで面接する」とのお言葉もいただいた。人事部と合同での面接が決まったが、その前にここでもウェブ適性検査で頭を打つこととなった。テキストで対策したものの、特に暗号問題の難易度が高くお手上げ。不出来を面接で挽回しようと臨んだ。果たして結果は……募集部署の窓口の方が好評価をつけてくださったものの、人事部による評価「募集ポジションでのマネジメント要件に不足している点、また適性検査も著しく悪くなければ不合格とならないが、そのポジションに求める点数水準に不足していた」これらが理由で見送りとなった。
他企業でも面接に進む中見送りとなるのは他候補者との相対比較であったり、「人柄は良かったが、幹部候補として見た場合に覚悟が不足」……というものや、「事業を自ら立ち上げた経験、マネジメント経験において自律的な行動が乏しかった」という評価まで様々であった。エネルギーのコンサルティング企業を受けた際、調査職務には携わっていたもののコンサル実務経験はない中、応募し面接にも進めたがコンサル経験がない点で見送りという、当然の結果を受けたりもした。
こういった紆余曲折を経ている中、エリートネットワークの転職カウンセラー 杉本様から日系商社の求人案件のご紹介で初めてコンタクトを受けた。その際は対象求人案件の説明よりも私の学生時代からの嗜好、これまでのキャリアを重点的にヒアリングくださったことが印象に残っている。
残念ながらその求人案件は書類通過しなかったが、次に紹介くださったのが大手日系メーカー。勤務地や勤務実態に関する質問を投げかけるも2週間以上返答を得られず脈なしかと思っていたところ、返答があり、正式に応募した。職務内容が、過去担当したガス設備の経験が生かせそうという点から興味を持った。また現業ではできないデジタル技術を駆使してのソリューション営業という点に今後の市場成長可能性と自身の成長可能性を感じた。一次面接では私と共通点が多いという面接官の方からの雑談により雰囲気良く面接に臨め、形式ばった面接ではなくありのままを話せることができ、こういったメンバーとお仕事ができればいいなと感じる機会となった。
ウェブ適性検査も、英語のCASECも無事通過し、この企業への志望度も非常に高まる中、二次面接に進むことができ、全力投球。二次面接で出てこられたお一人の役員の方の率直なお話や回答、説明などすべてがありがたく、納得度の高い内容となり、面接を通じて更に志望度が高まった。
この段階になると杉本様との電話、メールでの連絡頻度が高まった。面接でキレのある回答ができなかった点が気にかかり、フォローアップもお願いした。後押しもしてくださったことも奏功してか、喉から手が出るほど欲しかった内定を獲得できた。職種は法人営業+事業企画職。初の転職活動で初の内定を獲得できたのは46歳になってからであった。
内定を得るまで活動にかけた期間はおよそ半年。その間、半分の期間は在宅勤務をしていたことが転職活動の追い風となった。面接の際は在宅勤務と時間休暇や半日休暇を組み合わせて臨んだが、出社がメインであったなら転職活動がいっそう難航していたに違いない。
同時期に活動し、早々に内定を得ていた複数の知人から、「活動の軸が定まっていないのでは?」「営業職がしたいのか?」「それとも海外の仕事なら何でもよいのか?」「コンサルティング会社も受けてみては?」など数々の指摘や助言を受けた。そのうち一人、同業のある後輩(20代)はコンサル経験がないにもかかわらず、3か月程度でコンサル5社からも内定を得ており、どんな強みをどうアピールすれば先方に響くのだろうとますますわからなくなった。
活動初期は幅広く業種、職種に目を向け、実務経験はないものの関心があるヘルスケアやメディカル分野へも応募したり、求人数の多い水素事業や脱炭素事業推進職や、グローバルIT推進職、環境関連職などへも応募した。
あるエージェントからは、何か月も活動していて内定がまだ出ていないということは、まだまだ自分のキャリアの棚卸しが不足している、ストーリーもとことんポジティブにする必要があると力説された。とはいえ経験していないことを語れるわけでもなく、まだ深堀りが不十分なのか、自分の強みの言語化がまだ不足しているのか、など自問自答を続けた。
その中で気づいたことに以下のような点があった。
●日系企業一社の勤務経験しかない。しかし、海外現地法人に二度出向したこと、技術職、営業職、管理部門を経験したことで、二社、三社分の経験値を積んだ自負があること。
●部下を正式にマネジメントしたのは米国勤務時代だけでマネジメント経験が不足しているとみられがち。ただその時期以外は正式な部下を持たなかったものの、後輩社員の育成指導を重ねた経験や、20代の頃、自分の二回りも上の年代の工事業者複数社を現場で取りまとめていた経験がある点。
同じ経験を積んだ候補者でも面接官への伝え方の巧拙が面接の合否に関わることは充分にあると思う。上半期、下半期の期初に目標を策定し、期末に振り返りを行っており、十年以上前の内容を読み込み、どの時期にどの目標を立ててどれができて、どれができなかったなど、記憶を呼び起こし、自分のキャリアの棚卸しを行った。苦労をいかに克服したか、自分が大事にしている点などの質問にはその中から回答をひねり出した。
現職を続けながらの転職活動は時間的にも身体的にも精神的にも負担が大きく、正直何度も「退職して転職活動に専念した方が集中でき、面接スケジュール管理もしやすく、企業分析の時間も十分確保できる」と思ったが、複数のエージェントから「絶対に退職せずに活動をすべき。面接が入ったら休暇を使って臨むべし!」と提言された。家庭を持った状態で退職してしまうと金銭面での状況が悪化し、焦って企業選びを妥協してしまうことになりかねない。長期戦を覚悟していたが、結果的に退職せずに活動を続けられてよかった。
結果が出るまでは何をどうしていくのが正攻法なのかがわからず、二次面接に進んで喜び、見送りとなると落胆するという一喜一憂の繰り返し。書類を応募した企業は50超(書類応募後ポジションが充足したケースも含む)、面接に進めたのは10程度という芳しくない戦績。面接で問われた質問や多くのエージェントから得たアドバイス、転職経験者からのアドバイスなどをノートに書き留め、蓄積した。
早めに着手すべきであったのはウェブ適性検査対策。熟考するのではなくスピード重視で次々と回答していくという訓練が必要である。
自分を客観視するために同僚や先輩、後輩から仕事に対する自分の取り組み方や人物像を言語化してもらうことも有効であった。
採用活動にオンライン面接が定着したことはコロナ禍の恩恵と言える。今回内定をいただけた企業も、一次・二次・意思確認ショート面談いずれもオンラインでの面接であった。
私が経験した注意点を列挙する。
●個室型ワークブース『CoCoDesk』を利用したことがある。ノートパソコンとWiFi接続や利用前後の付帯作業も含めて投じる利用予定のブースで事前にリハーサルしておけば安心して臨める。
●自宅では自分専用の部屋がなく、子供部屋でオンライン面接を行うことが多かった。複数ある子供の学習教材のアラーム音(音ではなく声だったり)が面接中に鳴ることがあったり、子供の学習机のどこからか音楽が鳴ったりなど、予期せぬことが起こりうろたえた。音が出る可能性のある機器をすべて把握し、音が出ない設定をしておくべきであった。
●対面の面接では、メモや求人票を手元に置いて見ながら回答する、ということは一般的でないと思うが、私の場合オンライン面接で顔を下に向けすぎないように留意しながら、書類を見たり、メモをとったり、「ウェブサイト上の○○という記事を拝見して」と印刷書類を見ながら会話をしたりもした。
●オンライン面接では対面と異なり、相手には顔を中心に見せることとなり、またマスクも着用しない。直前にもひげをそり、襟やネクタイのゆがみがないかなども念入りにチェックした。
内定を獲得後、退職手続きを進めている時期に杉本様のもとへ御礼に足を運び、初めて対面した。ここでお聴きできた杉本様の手法に深さを感じることがあった。
オンライン面談で会話するエージェントが比較的多い中、杉本様は求職者と電話で会話することを重んじておられる。その理由は、オンラインだと相手の外見に気が向いてしまい、その印象が強く、聞き取れる情報量が意外と少なくなりがちというもの。学生時代に放送研究部に所属しておられたり、ラジオがお好きで、ラジオ番組で展開される会話のキャッチボールが心地よいと思われていることもあり、求職者から電話による「声」での人物像、嗜好を収集されるという。腹落ちする思いであった。
杉本様をスポーツ選手に例えるならば、サッカーで世界を代表するリオネル・メッシ。ボールが近くに来ていない戦況ではじっくり静観している。ひとたびボールが自分に近づくと、猛然とした勢いで一気にゴールまでボールを運ぶ。企業側と候補者側の距離がまだ縮まっていないときはまだ悠然としており、進捗確認的なメールのご返信もしばらくない、ということがあったが、一次選考で相性確認をする段階に入ると、タイミングを逸さぬよう、連絡を密にしてくださり、夜遅い時間帯でも素早くメール返信をくださり、こちらの安心感を高めてくださった。
杉本様とは正味2か月という短い期間であったが、動き出したタイミングから一気に加速・並走してくださり濃密な時間を過ごせた印象を持っている。
傾聴に長けていらっしゃる杉本様は、企業側の求人要望を聞き取り、ズバリの適任者を紹介するだけでなく、将来的にこういう動きをしてくれるのでは?という期待を上回る潜在適任者を見つけられるのではないか、とも思った。
新浪剛史氏が唱えた「45歳定年制」で一社目を引退、というわけではないが、私の初の転職活動は40代半ばでゴールを迎えた。次の職場で新たなスタートを切る。
中途採用で入社する点で、良くも悪くもその会社の慣習を知らないからこそ、それにとらわれずできる提言や取り組みがあるはず。共に仕事をするメンバーが持ち合わせていない視点から物事を捉えて自分の色を出していきたい。一方で張り切り過ぎて自己主張し過ぎたり、空回りすることもなきよう留意する。
仕事をしていくことはアスリートのようなものだと思っている。時に大一番もあるだろうが、シーズンを通して結果を出せるよう、サステナブル(持続可能)な努力が必要というのが私の持論。例えば、深夜の長時間労働で成果を出すようなスタイルは特に朝型の私の体には合わない。それよりも「持続可能な努力+α」をモットーにしていく。
単発で求人を紹介してこられ、見送りとなるとそれきり、というエージェントも多い中、自分に合う企業、職種を的確に紹介してくれ、きっちりと引き合わせてくださった杉本様に心から感謝する。
以上