東証プライム上場 高付加価値機械部品メーカー 産業機械部門 営業課長
東証プライム上場 機械専門商社 営業マネージャー
前田 篤郎 氏 44歳 / 男性
学歴:兵庫県立 夢野台高等学校 卒
新潟大学 理学部 物理学科 卒
社会人になったら何がやりたいか?何を職業としたいか?など将来のことを真剣、且つ色々なことに思いを巡らせ就職活動にあたるのが普通であると今となってこそ思いますが、当時の私は全くそれには当てはまりませんでした。表現するなら衝動的、且つかなり単純な考えで就職の方向性を定めました。それは他人と話すのが好きなこと、また一度は外国に住みたい、英語を使った商談がしたい(英語が喋れる訳ではない=仕事をすれば自然と覚えられるという考え。で、当時は全く英語を話せなかった)と思ったので商社しかないだろうと、その道を選択。(社会人になって、職業は星の数ほどあったことに気づくのですが・・・。)また、勤務地は日本の首都という場所が一体どんな所なのかを一度は経験したいという思いがあり、首都 “ 東京 ” に本社がある企業を選びました。
就職活動に対しては、お恥ずかしながらかなりの準備不足で臨んでしまいました。就職活動の情報自体しっかり入手しておりません(というより研究していなかったという説明が正しい)でしたので、大学4年の4月から開始してしまったのです。
後に分かったことは通常であればもっと早い時期から就職活動を開始し、大学3年の秋頃からは開始しなければならない・・・、ですので私の希望としていた大手(総合)商社は軒並み募集締め切り終了ということが発覚して、“ えー、そうなのぉー!? ”と少し焦った気持ちと、非常に残念な気持ちになったのを今でもはっきりと覚えています。
それに加えて私の時代は超就職氷河期であり、さてどうしたものかと思いながら、学部の総務(大学での専攻は理学部 物理学科)の就職案内に行ってみると機械系の専門商社の就活向けパンフレットが置いてありました。パンフレットの中を見ると、産業機械や素材関係から食品、繊維まで幅広く扱っており、且つ世界各国に会社を持っていることが分かりました。(実は同学部出身者が現在の会社に多数在籍していた経緯からです)
直感的にこれは非常に面白そうな会社だ、この会社に行くべきだと思いました。募集要項を見てみると、やはり既に締め切りが過ぎていました。それも1か月も。然しながら、大学にパンフレットを置いてあるというのはその会社と何らかのコネクションがあるのだろうと考え、研究室の教授に相談したところ、その場でその会社の人事部に電話をして下さいました。すると「何と未だ選考途中なので直ぐ面接に来て下さい。」という返事でした。これはラッキーと思ったのを今でも覚えております。面接に関しては、そのままの勢いでひょうひょうと面接対策も全くせず、聞かれたことに対して思ったことを答えれば良いと思っておりましたのでこれほど楽なことはないなと思っておりました。今考えても我ながら何とポジティブ思考なことか・・・。でもそれが良かったのは間違いなかったと思います。案の定、1次面接、2次面接、最終面接ととんとん拍子で進んでいき、面接が終了する度に“ 合格したな ”という感覚みたいなものがありました。そして最終面接も手応え十分で、帰ろうとしたところ、人事部長に呼び止められ、「合格を出したいと思うがうちにきてくれるか?」と聞かれて直ぐに快諾しました。
実は、この会社の他に2社受けたのですが、1社はエントリーシートで落選、もう1社は最終面接で落選しました。この最終面接での落選は、面接終了後に“ 落ちたな ”と感じたのですが、思った通りやはり落ちました。理由は質問の中で大学時代の勉強の内容を問われて、しっかり説明が出来なかったのが理由だと分析したのですが、そもそも勉強をしっかりしてないので説明のしようがなかったのです。しかし、当時の私の就職活動中のベースとなる考えに、“ そもそも自分を必要としてくれる会社で働ければ良い=落ちるということは、自分を必要としてないのでそんな会社で働く意味も無い ”と思っていましたので、全くショックはなかったです。自分はこの会社で働くべきでないという思考に至っていたので、落ちたことに焦りも悔しさもなかったのです。(実は、この考えは21年後の今回の転職の際も同じになるのですが・・・。)
以上のような感じで、新卒での就職活動は幕を閉じたのですが、就職氷河期で3社しか応募しておらず(会社に入った同期は皆30社くらい受けていた)、最後の1社がダメであったらどうしていたのだろう?と思います。当時は不思議と全くそんなことは考えず、その時はその時に考えれば良いと思って就職活動に臨んでいたことを思い出すと、今更ながらひやひやします。
いざ入社!さあ配属先はどこだ!?配属先は社内屈指のいわくつきの特殊な部署に配属となり、商社に入ったにも関わらず、何と出社初日に上司から「スーツは要らない。作業着、ヘルメット、安全帯、安全靴に脚絆・・・。これが今日からお前のスーツ(仕事着)だ」と・・・。
実はこの部署は営業部が販売した製品(火力発電所向けの制御装置やバルブなど)を発電所内で据付・調整し検収を上げてもらうという職務を実行する部署でありました。自分は商社に入ったのに、現場で作業!?これは目から鱗というより、“ 完全に詐欺だ! ”と思ってしまいました。実際、ここの部署に配属になった先輩方は9割の確率で会社を辞めていっております。然しながら社会人なりたての当時の私にはそんなことを言っている余裕もなければ、考えもある訳ではなく、ただやるべきことをこなすのが仕事だと思って取り組みました。
学んだことは、現場での上下の人間関係構築。今では完全パワハラなことも当時は当たり前に行われていた時代です。如何に職場の上司、先輩、関係者との仲を良好に保つか?築いていくか?自分の思いを殺してでも、周りとの関係を構築し業務や人間関係を円滑にしていく術とその重要性を学びました。当然のことながら忍耐、胆力も自然と養われます。然しながら、今思える一番の収穫(これは今の自分の社会人としての基礎となっていると思われますが)は、自分自身で考える能力がついたということでした。直属の上司は入社1か月目の自分にこう言いました。「俺はお前に仕事は教えない。自分で見て盗め。それで分からないことがあったら聞いてこい。」社会人になったばかりの私は、当然先輩や上司が仕事を教えてくれるのだろうと思っていたのですが、何も教えてくれませんでした。最初は、何が分からないのかさえも分からなかったので質問も出来ませんでした。上司は理不尽過ぎて、一度だけ現場から脱走したいと思ったこともありました。そんな中、同じ現場の他社の人の助けもあって、徐々に仕事を覚えていきました。そこでは物事を本質的に考える力がついてきました。何故この過程が必要なのか?論理的思考力というのでしょうか、そういう物事の捉え方、考え方を学びました。社会人になって最初の2年間でこれを習得したことで後に飛躍的に伸びていくことは未だこの時には知る由もなかったのですが。
特殊部署から営業部署へ配属が変わり、ようやく商社マンっぽい仕事が始まりました。スーツを着てお客様と商談です。
ここでの仕事は、火力発電所向けの制御装置、保守ツール、バルブ、その他計測機器などの営業です。製品知識は現場経験で既に把握しておりましたので、ここで最も大事なのは如何にお客様の要望を聞くか、購入してもらえるように導くかということでした。営業の基本は、お客様に共感することである。お客様が何を欲しているのかを読み解くこと、またお客様の気持ちに寄り添ってあげることで初めて商品は販売出来ます。営業マンの中には自社製品の良いところ、凄いところばかりを切々と説明する人がおりますが、これは必ずしもお客様の聞きたいことではないのです。商品を購入するのはお客様であって自分では無い。自分の思いばかりを伝えたところで商品は売れない、これは当然のことで当たり前ながらにこれを学びました。
また、競合と同じ条件であれば、最後は人間力の勝負となってきます。お客様も人間でありますので人で選ぶことも当然で、如何に人間関係を良好に築くか?お客様と仲良くなるか?ここで現場での経験が活きました。(勿論持って生まれたキャラクターも多少はあるのでしょうが・・・。)
入社時の希望が叶い、海外駐在合計が約10年となりました。計3回の海外駐在です。(2カ国駐在して、うち1カ国は2度の駐在)
初回は南米での駐在で、現地法人の立上げの従事と立上げ後の会社経営でした。ここで学んだことを説明するのは少々難しいです。何故なら全てが学んだことで書き切れないからです。現地法人は、どの様に立上げるか?必要なことなど全て単独で調査して自ら実施していきました。普通は会社でそれ相応のプロジェクトチームが組まれるのでしょうが、当社のプロジェクトチーム人員数は私一人と担当上司(理事)のみでした。
一番の悩みは、ビザの取得でした。現地法人が存在しないので当然ながら労働ビザは発行されません。観光ビザでは3か月しか滞在出来ず、延長措置を申請しても最大で半年までしか滞在出来ないのでした。色々調査して、知恵を絞ってとある連盟が開催している語学学校に入学すれば、留学ビザが取得出来ることが判明したので、留学目的で入国し、学校に通いながら、会社設立の業務を行うという手法を選択しました。
また駐在国の特異性で日常生活では英語が通じないことから、現地語を習得する必要があり、語学学校は2校に通い、且つ住まいも現地人家庭にホームステイするという形態を選択しました。午前中は学校に通い、昼の14時~夜中2時頃まで会社設立の対応に当たりました。語学学校では、世界各国から色んな国の人たちが言語を学びに来ており、先生は学んでいるその国の言語で教えます。クラスが上がってくるとそのレベルも上がってきて、自分の出身国のことなどをスピーチする授業もあったりと非常に興味深いものでした。
この時に感じたのが、私は日本のことを余り深く考えたことがないなということでした。他国の人々は自国のことを非常によく知っていると感じました。例えば政権については凄かった。どこの政権が国を統治するかでその国の政策が大きく変わってくるので、それは国民の生活に大きく関係してくる、言わば死活問題にも成りかねないので皆が興味深々でそれぞれしっかりとした意見を持っていたのですが、私はというと説明に困りました。異国の人々とビジネス含め、交流する場合はあらゆる分野において日本のことをもっと深く知っておく必要があるなと感じ、非常に勉強になりました。また日本が如何に平和であるのかも肌で感じ取れる体験であった気がします。
さて、会社の登記が完了すると、今度は事務所内の仕切り工事、電話工事、ネット回線敷設、机椅子の設置などインフラ関係の整備に入りました。電話会社との契約では骨を折りました。担当者がコロコロ代わり、その都度同じ話を何度もすることになり回線予約するのに2時間くらい電話をしました。(あとで知ったのですが、これは自分が外国人だからでなはなく、現地人がやっても全く同じことになるというから怖ろしい)
インフラが整えば現地人従業員の採用を自ら実施しました。面接を自ら実施して良いと思う人材を雇用しました。自ら雇用した人材は自分の赴任が終了するまで右腕的な存在として勤務してくれましたが、自分の人を見る目はこの頃から既に備わっていたのかなと感じました。事業が開始すると、不運なことに元々予定していたプロジェクトが全てストップしてしまい(国の景気が悪くなり客先にてプロジェクトの延期を決定)、新規商売を発掘しなければならない状況に陥りました。ここからはもう、躍起になって面白そうな商材を片っ端からトライしていったのですが、なかなか上手くいきませんでした。ここでの新規商売発掘への挑戦が非常に良い経験となり、如何に新規を発掘するかのノウハウや論理的思考を構築することになり、2度目の駐在(別国)で威力を発揮することになるのですがそんなことを当時は知る由もありませんでした。
現地人スタッフへの営業教育や自らも一緒になって客先を回り、更に会社運営をして東京本社への報告を実施していく中で、財務諸表の読み方や、経営数値の見方、如何に商売を大きくしていくかなどを自ら試行錯誤の中、学んでいきました。赴任終盤には現地企業の買収対応も試みましたが、該当企業は粉飾決算を実施していることが発覚し、買収は断念するもキーマンとなる従業員のみ引き抜く形で当該商権を取り込みました。
思い返してみると社会人生活の中でも仕事的にはかなり過酷な状況であったと思います。ですが、ここでネガティブ思考を排除する考え方に辿り着いたのです。ネガティブ思考を発動したところで結果が変わる状況で無いならネガティブ思考自体は、マイナス要素しかなく良いことは全く無いことに気づき、ネガティブ思考を排除する思考方法を会得しました。これは、ストレスを各段に減らしてくれる考え方で私の人生の中で一番の収穫かもしれません。また、仕事を円滑に進めるためには、上司(役員)に対して憤慨しても何の得も無く、憤慨したい気持ちをコントロールする重要性と術も学んだのでした。
海外駐在の2回目はアジアで最もホットな国での駐在でした。実は当初、自分は駐在員候補ではなかったのですが当該国は弊社従業員の殆どが駐在を嫌がる国であり(環境面、食事面でそれなりのハードルがある)、誰も行きたがらないという理由から会社は駐在員の選定に苦慮しておりました。そんな中、社長の鶴の一声で私にお鉢が回って来たのです。幸運にも私的には、一度は行ってみたい国であったこと、また今後アジアで一番のマーケットになるであろう国が如何様なものなのか実感したかったので私にとってはまさに渡りに舟ということで駐在を快諾しました。
この国での駐在ミッションは、会社業績の立て直しでした。今回の私で4代目の代表となるのですが先代までは会社業績は万年赤字で利益余剰金はマイナスでした。黒字化するには事業の入替えが必須であり、利益率の低い事業から脱却し、利益率の高い事業を取り入れる必要がありました。理想は、日々定期的に注文が来る流れ物商売をベースとし、それに加え数年単位で発生する大型プロジェクトを受注する商売形態への移行でした。また、従業員の意識改革も必要と考え、結果重視、且つ結果を出した従業員には存分に還元する方針に切り替えました。
事業の入替えでは1回目の駐在での新規商売開拓に奔走した経験が大きく役に立ちました。どの事業が伸びそうで、且つ弊社に向いているのかという選定には然程時間も掛からず、また迷うこともなかったのです。結果、新たに2事業の立上げに成功し、駐在3年度目には主力事業に成長、3年度続けて黒字化に成功し、毎年過去最高の業績を残し、利益余剰金はプラスに転じたのでした。
初海外駐在の国に再度駐在となりました。ミッションは自ら立ち上げた現地法人の閉社です。諸々の理由で現地法人に問題が生じ、経営陣は閉社を選択したのです。主な実施案件は、従業員訴訟の回避(従業員解雇)、商権移管、在庫処理、休眠化の会社管理移行の4案件でした。10年前に自ら雇用した現地従業員を解雇しなければならないことや、自ら立ち上げた事業を他社へ譲渡するのは、一言では説明出来ない複雑な思いであり痛恨の極みに他なりませんでした。それでも、私の任務ということで淡々とこなしていきました。また今回の駐在ミッションと並行して海外駐在2回目の国の現地法人の管理も南米から遠隔で実施。一人で二人分の業務をこなす形となりました。
ここで学んだことは、“ 確かな人脈は裏切らない ”ということでした。解雇される従業員は元部下であり、公私共々私の駐在員生活を助けてくれた人々です。再雇用先も極力斡旋するなど最後の最後まで真摯に対応しました。それが10年前の駐在時にお世話になった恩であり、私の責務であると思いました。また前回赴任時に構築した人脈を駆使し、商権の譲渡も無事に実現することが出来ました。この商権譲渡が達成出来ないと、客先との契約条項違反となり閉社は出来なかったので、ある意味非常に運が良いと感じました。誠実に対応して来たことは周りの人々はしっかり見ており、ここぞという窮地を救ってくれるのです。全てのミッションが完了し現地を発つ折には、「また助けが必要なら何時でも連絡をくれ」と言ってもらい感無量でした。
転職は、1回目の駐在から帰国した2017年頃(5年前程)から朧げに考えておりました。
理由は、売上・利益ともこの20年間下降の一方でそれは従業員の減少にも顕著に表れており、自分の入社した2001年、本体(グループ会社を除く)の社員数は600名を超えていたのですが、現在は160名程。海外駐在3回の経験の中での上司は役員、この関わりの中で、ここ20年間の会社衰退の原因は経営陣の実力不足と断定出来ました。私は会社を何とか良い方向に持って行こうと、これまで与えられた職務を実直にこなし、成果も上げ、会社に貢献してきたと思っておりましたが、いよいよ限界が見えた感じがしました。経営陣の南米現地法人閉社に対する責任の軽視や、今後の事業計画の内容の無さが転職へのトリガとなりました。今後の会社の未来と新たな会社を天秤に掛け、やはりこのタイミングで思い切って転職することが、様々な面で私の人生がより豊かになるのではと感じました。
蛇足になってしまうかもしれませんが、社内の先輩の中には、こんなことを言う人が居ります。「暫く立てば上は抜ける。自分たちで変えていける」と。確かにそれも一つの考え方だとは思いますが、自分はその考えには全く賛同出来ませんでした。その表現は私的にはこうなのです。「暫く立てば上は抜けるが、自分たちで変えられる時代が来た時には、時すでに遅し」。会社はそんなに急には変われない。ある程度の時間を掛けて変わっていくものと思っており、この20年間の会社の歴史がそれを見事に証明していると感じるのでした。それに気づかないのだろうか・・・。変えるなら社員一人一人が今から変えていくという意識を持つべきであり、それが出来ない人が上に行ったところで同じことの繰り返しなのです。
(株)エリートネットワークの転職カウンセラー高橋様との初回面談前にお伝えしたのは、次のようなものでした。
<やりたい事&こだわりたいこと>
・エネルギー関係、水処理(環境関係)の事業に携わりたい。
・こだわりは、その業界をリードしていく会社(リーディングカンパニー)、環境下で働きたい。(新興国の生活環境を豊かにしたい。)
<避けたいこと>
・日次的、月次的なノルマが決まっているような超短期成果を求められるような職種は避けたい。
然しながらこのこだわりは、転職活動中に徐々に変わっていくことになります。先ず、携わりたい事業分野の幅が広がり、製造業やプラント業界が加わりました。更にその業界の将来が明るいかどうかも自分の中では大切な項目となりました。そしてこれらをベースとして、最も重視したのが転職先会社の考え方でした。変化を大切にする会社で働きたいと思いました。どういうことかと言いますと、変化していけない会社は私の転職前の会社同様に衰退の未来しか待っていないという持論があったからです。何事も永遠などあり得なく存続していくためには変化、進化、環境に順応していかねばならず、このような適応を嫌う会社では絶対に働きたくないと思いました。ですので、会社面接では必ず質問して、変化していこうとする会社なのかどうかを見極めました。
それから給与面も重要視しました。何故なら給与は仕事に対する対価でありますし、生活と密接に関係してくるからです。もし納得のいかない給与であれば仕事へ対する意欲も質も落ちてしまうのではと思っています。
今回、転職活動は初めての経験でしたが、今回が最初で最後であることを願いたいと思います。そもそも転職前の会社に満足していれば転職活動することもなかったのであって、次また転職するとなると次の会社に対してもまた同じようなことが起こったということになり、それは今回の転職が極論的には失敗だったということになるからです。(勿論そうならないように選べたとは現時点では思っておりますが・・・。)
転職活動を通して得たものは多々ありました。
先ずは転職活動を経験出来たことです。世の中転職する人は沢山おり、少なくともその中の一人(自分ですが)の心境は十分に理解出来ました。この経験は非常に大きいと思います。何故なら将来、会社を経営するとか、組織を俯瞰的に見るとか、部下を管理する(特に心理面)などの局面では今回の経験はきっと助けになると思うからです。また、私のこれまでやってきたことが世間的にはどういう位置づけで、その経験が希少なのか、価値のあるものなのかも少し分かった気がします。更に自分のことを他人に説明するのはかなり難しいということも分かりました。これは普段自分のことを他人に話す機会が殆ど無いからであって経験が少ないことに依るものです。面接では、自分自身のことを何度も話すことになりますが、同じ内容を話していても、使う言葉や話し方で相手の受け取る印象はがらりと変わってきます。それも今回身に染みてよく分かりました。これまで法人営業では説明の対象は機械や装置、言わば“ 物 “であったのでそこまでではなかったかもしれませんが、説明する対象が自分、つまり” 人間 “となると言葉一つで相手の印象もガラリと大きく変わってくるのではないでしょうか。
転職活動は新卒での活動と違い、大多数の人にとっては相当にタフな活動になってくると思いますので自分をしっかり持って最後までやり抜く必要があると感じました。転職は新卒と違い、採用人数もかなり少なく、ポジションによっては1名しか採用しないなどもあります。自分のこれまで培ってきた経験やスキル、人間性も含めて、採用する側は求人のポジションは勿論、会社自身にマッチする人材を採用しようとしますので狭い門であると認識して臨んだ方が良いと感じました。
面接機会を獲得するのにも一苦労です。実際、最初は面接も簡単に出来るのだろうと吞気に考えておりましたが、そうではなかったです。自分の書類選考通過実績で言うと0.266(2割6分6厘)でこれが良い方なのか悪い方なのかも分かりませんが、私は大変だと感じました。面接機会をより多く獲得するためには職務経歴書はしっかり準備しようと心掛けました。抽象的な表現は避け、具体的、且つ定量的な説明に努めました。最初の選考は書類のみで実施されますので書類で自分の全てが伝わるくらいの意気込みを持って作成することが必要でないかと思いました。
転職エージェントの方々ですが、私は7名程のエージェントの方々と話しをしました。色々と話している中で自分の中でこの人なら信頼してお任せ出来ると感じる人が出て来ます。私にはそれが高橋様でした。高橋様に任せて活動に専念するのが転職成功への近道ではないかと思いました。幸い自分の場合は、高橋様と知り合うことが出来、多大なご支援を頂きました。初回の面談の時に、高橋様は他のエージェントとは違うなと思い、最後は高橋様一本で活動をしておりました。
エージェントの中には、何か高圧的な感じで言ってくるエージェントの方も居られましたが、それはそれで、ポジティブに考え理解に努め、咀嚼してエネルギーに変えました。指摘してもらえるのは非常に有難いし、自分のことを思ってくれているからだと思えば前を向ける筈です。このようなことは会社でも起こることで転職活動に限ったことでは無い筈です。余りに違えば切れば良いと思います。
面接では、自分と志望会社とのマッチ度を量る場だと思って臨みました。当然、その会社へ入社したいので自分をよく見せようとするのが人間なのでしょうが、これは多分、面接官からすると見透かされるのではないかというのが私の持論です。相手は面接のプロであり、多くの色々な人を見てきている筈ですので、ここはありのままの自分で対応し、自分の思い描いている会社でマッチしているか?という視点から面接に臨めば双方にとって良い面接となるのではないでしょうか。会社側は要求している人材にマッチしないと採用はしません。自分の方もその会社が自分にマッチした会社であるのかをしっかり確認し、入社後のミスマッチを避けるよう努めるべきだと思います。
ミスマッチになるとまた転職することになる可能性が高まります。そうなっては今回の転職が成功したとは決して言えませんよね。(こんなことを偉そうに書いている私もどうなるかは分かりませんが・・・。)私の場合は、上述した転職へのこだわりにも書きましたように、変化出来る、しようと挑戦している会社なのかどうか?に重点を置きました。実を言いますと、今回転職を決定した会社へ行こう、是非ここで働きたいと思ったのは、最終面接で担当本部長の方が「変化しないといけない。同じことをやっていてはいけない。全く新しい物を生み出さないといけない。」という考え方を持たれていたからでした。自分のやりたいこと。事業の成長性。会社の考え方など全てがマッチして決定した今回の結果でしたが、改めて自分は非常にラッキーだったかもしれないとも思います。
特に気張ることもなく、今までと変わらず自然体で臨みたいと思います。やるべきこと、求められることをしっかりとこなす。ただそれだけです。意気込みではないですが、新しいことへの挑戦と新たな出会いがあると思うとワクワクしてきて非常に楽しみです。
また、今回多大なる転職の支援を下さったエリートネットワークの高橋様の期待には応えなければならないという思いで一杯です。自分の活躍が、企業様のエリートネットワーク様に対する信頼に繋がるからです。それを考えると身の引き締まる思いです。
これまで色々と思ったことをつらつらと書いてきたのですが、最後に一つ。
21年間勤務してきた会社には感謝の念で一杯です。転職出来たのはこの会社で勤務出来き、成長出来る色々な機会と場を頂けたからであり、間違いなく前職あってこそ今の私に成長することが出来たのです。機会があれば、今後何か一緒に仕事が出来る時が来るとそれは大変に素晴らしいことですね。
また、高橋様はじめエリートネットワーク様には本当に感謝申し上げます。人との出会いは自分を成長させてくれます。今回の出会いも本当にそう思える高橋様との素晴らしい出会いでした。
ありがとうございました。