株式上場 WEBマーケティング企業 デジタルトランスフォーメーション事業本部 コンサルティング営業
スポーツ情報の管理・発信及びスポーツイベントの企画・運営事業を営むNPO法人 副代表
持田 郁真 氏 28歳 / 男性
学歴:中央大学附属高等学校 卒
中央大学 商学部 会計学科 卒
Adobe Premiere Pro、Photoshop、Illustrator
新卒での “ 就活 ” は、初めて活動解禁時期がずれた年に当たりました。
以前までは大学3年生の12月頃に活動が解禁され、4~6月頃に内定が出るといったスケジュールだったものが、大学3年生の3月に解禁され、大手企業や経団連に所属している企業の内定が8月に出るといったスケジュールになりました。
先輩たちからの情報はもちろん大事でしたが、先輩たちのスケジュール感よりもさらにスピード感を持って取り組まなければいけないと危機感を覚えたことが印象に残っています。
そんな危機感を持っていても、そもそも経験していないことだったので腰が重く、動き出しは他の人と比べてとても遅かったと思います。また、遅かったにもかかわらず、一丁前に名前が知れ渡っているような有名企業や、スポーツ業界にも興味があったのでスポーツメーカーやスポーツショップ、球団職員として就職できたらなと2月末までぼんやり考えていました。
そして、3月になりようやく動き始めた時、自分にとって大事な出会いがありました。
都心の合同企業説明会に出向いたり、興味がある企業の説明会を受けたりする中で、どこもピンとこないなと生意気にも考えながら出会った新卒紹介のエージェント企業。そこでようやく “ 就活 ” とはなんぞや、どうやって戦い抜いていくのか、軸とは何か、といったことを教わることができ、就活を進めることができました。
前置きが長くなりましたが、 “ 就活 ” 時の志向・軸は大きく2つありました。1つ目は「人」、2つ目は成長著しい、もしくは革新性のある「サービス」があることです。
1つ目について、大まかに言えば「いい人」たちが集まる組織・会社で働きたいと思っていました。「いい人」の定義づけとしては、若手のチャレンジに対して賞賛を厭わない人や例え失敗をしたとしても次に生かそうとするポジティブマインドを持っている人です。
また、2つ目の「サービス」に関しては、世の中にブレイクスルーを起こすような革新性があるものや、昨対比200~300%を続けているようなサービスを扱う企業で働きたいと思っていました。やはり、成長著しいサービスを扱うことで、より自分自身の成長角度を上げられるだろうと思ったためです。
以上の大きな2つの軸をもとに、新卒エージェント会社から紹介された企業を中心に、将来的にはその企業のエースになって会社を背負っていくんだという志を持って就活を進めていました。
クラウドサービス企業からご縁を頂き、初めに担当した業務は、OJTも兼ねた反響型の内勤営業でした。
完全にインバウンドで、問い合わせ内容からさらにヒアリングを行い、その内容をもとに見積書を送付、受注となればデザイナーとの打ち合わせ、仕入れパートナー企業との納期の打ち合わせなど、ビジネスにおいて大事な「様々な人たちと関わりながら、共通認識を持った上でゴールまで突き進む」という経験をさせてもらったと感じています。
OJTが終わると本配属として外勤営業に。新卒の中で唯一、大阪の新規部署設立(クラウドセールス)と共に異動になり、右も左もわからない場所での仕事が始まりました。さらに、新規部署の設立だったため、お客様がいないことが直近の課題でした。とはいえ、外勤営業のスキルも何もない自分が、いきなり独り立ちして契約を取れる訳もなく、取り急ぎはテレアポから始まることになりました。
最初は難しく、なかなかアポイントが取れませんでしたが、コツを掴んでからは1日に3件のアポイント、最低でも100件のコール数を目標に地道にやっていきました。当時はインサイドセールスといった専門部隊が会社のどこにもなく、見本とする方たちもいない中で、自分なりに試行錯誤しながら取り組んでいたのを覚えています。
アポイントがしっかり取れていき、先輩や上司の方たちへトスアップをしていく中で、時期が経つとアポイントがあぶれるようになってきました。そうなってきた時に、改めて上司に壁打ちを頼みフィードバックを頂いて、ある程度の形になったところでようやく外勤デビューでした。ここまで本配属から2~3か月経っていたかなと記憶しています。
本格的なクラウドセールスの外勤営業になってからは、テレアポと並行しながらお客様の課題をもとに提案を行っていくということを繰り返しました。外勤デビューしたといっても、下っ端であることは変わらないため、先輩・上司たちへのトスアップはもちろん、自分の新規アポも重ねていく日々でした。
ここでは1日のスケジュールを計画し、分単位ごとに調整する必要性を学ぶことができたと感じています。
提案内容を考え、資料に落とし込むことも大事でしたが、テレアポも同時に行っていたため、お客様がいる時間を見計らって要点をかいつまんでお伝えすることや、担当者が席を外していれば何時に帰ってきそうかをお聞きし、外勤営業の隙間時間に架電していました。
そういったことから日々のスケジュールを見直しながらも、提案内容として現状をヒアリングすることに加えて、より先の「どうなっていたいか」「お客様の意思(WILL)」を意識して提案を行っていました。
また、このWILLのヒアリング・提案をしていく中で「仮説を立てて提案を行う」、「事例を示す」の2点が営業活動の中で大事だと気付きました。
クラウドセールスのサービス内容は既存の業務にメスを入れるような「インターネットを通じてあるべき姿にするもの」だったため、課題をお聞きして提案を行うような営業活動ではまったく歯が立ちませんでした。
あるべき姿を想像しながらも課題はお客様によって様々で、既に導入頂いている企業の事例をもとにお客様に合わせた仮説を立てながら商談を行うことが重要でした。
営業活動がなんとか形になってきた頃、突然、大学時代の1つ上の先輩から、「会社を一緒にやってみないか?」と誘われました。この先輩とは大学2年次から卒業するまで、スポーツイベントを企画して運営したり、プロ野球の球団に話を聞きに行ったり、メジャーリーグの球場にまで足を運んで莫大な市場、ビジネスチャンスがあることを一緒に肌で感じており、その先輩から「スポーツ業界で起業するから手伝ってほしい」との話をもらい、突然の連絡で戸惑いながらもワクワクしたことを覚えています。
ワクワクした気持ちのまま、連絡を受けた2週間後には会社に退職の意思を伝えていました。約2年半積んできたインサイドセールスやクラウドセールスとしてのキャリアを一旦終えなければなりませんでしたが、当時は「どちらの仕事が面白そうか・よりワクワクするか」を軸に決断しました。
退職後すぐに先輩がいる愛知県に引っ越し、まずは法人を立ち上げる準備を行っていきました。地域のプロチームと信用金庫がタッグを組み、日本財団から無事に採択され、私はNPO法人の副代表として奮闘することになりました。
最初は事業計画書の策定から始まりました。右も左もわからない中で、インターネットから情報を引っ張ってきてはなんとか形にする事を繰り返し、悪戦苦闘しておりました。
その傍らでウォーキング事業や小中学生たちの部活動やクラブ活動を取材し、フリーペーパーにするというライター業も並行して行っていました。
無事に資料が集まり、4か月後に法人化し、ようやくアクセルを踏む準備ができたところで、資金繰りに直面。日本財団から採択された分は3年間で1,000万円ほどで、広告費や人件費ですぐになくなることは明白でした。ウォーキングやフリーペーパー作成といったコンテンツ作成と、自らも資金繰りのための営業活動を行っていましたが、ここで最初の壁にぶつかりました。
まずは業界や自社商品に合わせた営業活動ができなかった点です。
スポーツ業界特有かもしれませんが、スモールビジネスでコツコツ行っていくという概念がまだわかっておらず、クラウドサービスのような爆発的な右肩上がりを考えながらの営業活動は全く相手にされませんでした。
また、自社商品はスポーツイベントをフックとしたコンテンツビジネスだったので、ここで回るお金は集客(チケット)やスポンサー営業、放映権(テレビ)、グッズなどでした。しかし、立ち上げたばかりで何の箱も実績もなく、チームも持っていない自分たちは放映権やグッズといった商品はなく、スポーツイベントの集客とそこに対するスポンサー費用のみ。スポンサー営業でとても難しかったことは、サービスを通しての課題解決が目に見える形で表現しづらいという点でした。
次に地域特有の「右に倣え」の風潮を理解できないことも思ったように営業活動ができない1つの理由でした。
外的要因にしてしまうのはダサいですが、当時の自分はコストメリットや熱意をもって伝えることができれば共感してくれるのではないかと期待していた一方で、思っていた以上に周りの目を気にするという風潮でした。理解しきれずに提案を行っていた自分が悪いですが、提案を行うたびに「あっちの会社はどうしているの?」「事例にあるけど、この会社はいくら分のスポンサーをしているの?」など右に倣えという感覚にどうしても慣れない日々が続きました。
この2つの壁は、時間が解決してくれたと感じています。
もちろん、何もせず時間が経過していた訳ではなく、まずはコンテンツを強化して地域に認知されて実績を積んでから、満を持して提案に行くというスタイルに変更しました。課題解決の内容もコストメリットを前面に押し出すよりは、スポーツと関わる上でのクリーンなイメージアップ、ハブとなってたくさんの関係値が築けることを打ち出すことにより理解が得られていきました。
コンテンツが認知され始めると「あそこでイベントやっていたよね?」「このフリーペーパーは君たちが作っているのか!」といったありがたい声を頂く機会が増え、いい循環ができてきたと実感したのを覚えています。
徐々に関わる人たちも増え、任せて頂く仕事も増えてきた中でコロナ禍が直撃しました。スポーツイベントは軒並み中止され、プロスポーツチームからの依頼も減り、コンテンツを強化しようにも部活動やクラブ活動も中止している状況でフリーペーパーの内容も充実できない時期が続きました。
悶々とした日々でしたが、嬉しい誤算もありました。
外に出られない分じっくり考える時間ができ、新規事業を立ち上げる準備ができたことです。コストカットをしつつも生きていける最低限の軍資金を保ちながら、新たに映像事業に踏み切りました。部活動やクラブ活動の様子を冊子だけではなく映像として伝えることで、より地域のためになると思ったためです。
最初の頃は自分自身が役者となりストレッチやトレーニングの映像を撮影、編集しYouTubeにアップロードまで一手に引き受けていました。映像の実績を積み重ねながら地元のテレビ局に営業を行い、放送枠を頂くと共に冊子との抱き合わせでスポンサー費用を頂くことにも成功しました。
映像編集ソフトなんて触ったこともなかったですが、なんとか形にできた達成感を覚えていますし、何より子どもから大人までYouTubeを見る時代になってきた時代的背景もあり、映像化することでとても喜ばれることが、編集のしがいがあるとモチベーションに繋がっていました。
段々とマスクの徹底やワクチン接種などコロナウイルスの対策基盤が整ってきて、プロスポーツの試合や部活動、クラブ活動も再開する流れに乗り、自分たちの活動にもエンジンがかかります。ここで会社としての売上増を見込んで人を雇うことにも挑戦しました。今まで2人で突っ走ってきましたが、どうしても回し切れないことが増えチャンスロスになっていたため、人員を増やすことで会社として注力するべきことに全力で走っていく体制を整えていきました。
新たに増員しての体制になりましたが、ここで難しかったのは従業員との考え方や感覚が合わないという点でした。代表との仕事は阿吽の呼吸で、お互いに1を言えば10わかり、信頼して仕事をどんどん前に進めていけましたが、従業員がスポーツ業界のことを一切知らなかったり、折衝経験がなかったりしたため、話の前提を合わせる必要がありました。
そういった業界的な知識から自分たちを取り巻く環境、関わる人たちとの関係性を再確認・共有しなければいけないと認識できたのもこの頃でした。
この経験から会社としての文化、ビジョンといった「何を目標に走っているのか」を明文化し、従業員に共有したことでより一体感が生まれたことを覚えています。
スポーツイベントの活動再開やコンテンツの強化、仕事を任せることができる部下の育成など、これから会社がより伸びていき面白そうなフェーズでしたし、まさに「事業づくり」という0→1のような経験とともに、1→100も並行して進めていたような環境でした。仕事に熱中できる良い環境でしたが、あわせて市場や取り扱っている商材といった外的要因もあり、スケールすることの難しさを痛感していました。
さらに自身の結婚も重なり、改めて社会人として今後どうなっていきたいか、妻との時間をどう捻出するかを考えた結果、土日休みがハッキリしており、かつ今まで以上にお客様に価値のあるサービスを提供し、その対価に見合った、もしくはそれ以上の仕事を行い、市場自体をスケールさせていきたいと思ったことが転職に至った背景です。
転職活動における軸は以下の3つでした。
・スピード感があり、柔軟な働き方ができるかどうか
・社会人として学び直せる環境かどうか
・お客様、エンドユーザーに高い価値のサービス、事業を提供している会社かどうか
この3つは何がなんでも譲れない点でした。
新卒で入社した会社もスピード感のある企業でしたし、先輩と立ち上げたNPO法人も “ 作っていく側 ” でしたので、決裁権などのスピード感は言わずもがな、1つの承認を取るために1週間も待っていられないことは自分の仕事の進め方として明白だったので、仕事のスピード感というのは非常に重要と考えていました。
また、新卒から2年半で退職し、NPO法人では肩書上No.2であったため、改めて自分の仕事に取り組む姿勢や態度などが、他の企業で通用するのかといった漠然とした不安がありました。そのため、そういった不安を拭い去るためにも人数規模が大きく、叩き上げの方が上役にいるような環境や会社がいいなと感じていました。
もちろん、転職するからには年収も上げたいと考えていたため、価値の高いサービスを提供することにより、結果として自分にはね返ってくるような環境もいいと思っていました。
逆にこだわりとして捨てた点は居住地です。
転職活動時は住んでいる東海地方から離れづらいというこだわりがありましたが、妻の応援もあって関東圏の企業も候補先として考えるようになりました。
やはり大事なことは準備だと思います。
転職活動の軸から、転職するに至った背景や理由、今後のキャリアイメージなどもほぼ全ての面接で聞かれるためです。
用意するにあたっても(株)エリートネットワークの転職カウンセラーの木村さんは、いつでも親身に相談に乗ってくれ、面接時のアドバイスや心構え、軸や志望動機などがぼやけそうな時にも初心に返らせてもらい、非常に心強かったです。そのため、何か少しでも不安になったり、気になったりする点があればエージェントさんを頼った方が良いと気付きました。
また、志望動機や転職の軸などは相手企業に無理に合わせる必要がないということも、もう1つの気付きでした。
面接が進むにつれて「この企業に入りたい!」と強く思えば思うほど、相手に合わせている自分がいましたし、根本の軸がぶれているとそこを突かれて上手くいかなかったという苦い経験があったため、企業や人によるかとは思いますが、無理に合わせる必要はないかと思います。
反省点としては、他責の姿勢を見せてしまうことはNGという点です。
準備していない質問がきた時に、どうしてもいろいろ話してしまいがちですが、その際に他責の姿勢が見えたり、どう自分自身で解決していったということが見えなかったりすると、一発アウトのような気がします。
仕事柄、全てを自責の念で捉えるというのも難しい点がありますし、否が応でも他責の部分で仕事が少し滞ってしまったり、複雑な気持ちになったりします。ですが、そこをどう改善していったか、自分で学習して自分で行動できる人を企業側は求めていると思うので、そういった気持ちを理解しながらも流れに身を任せ過ぎずに自発的に取り組んできた事実をしっかりアピールできれば、ポイントにつながると思います。
即戦力というよりも、オールドルーキーという立場だと思いますが、しっかりとアンラーニングをして次の職場でのカルチャーを体現できる存在になれたらと思います。
自分の学習能力や素直さ、人の良さを評価して頂いたので、そういったところはもっと伸ばしていき、会社で必要な知識やスキルを習得しながらも、自分にしかできないオリジナルな像を描いていきたいです。
また、次の職場では、選考の際に「できるだけ長く働いてもらいたい」という言葉を頂けたのも嬉しかった点です。その言葉通り、長く勤めて会社の利益の最大化のために奮闘しようと意気込んでいます。