東証プライム上場 財閥系リース会社 本社監査部 内部監査
東証プライム上場 大手非鉄金属メーカー 経理部 内部監査 課長代理 社内内部監査委員・子会社監査責任者
田崎 明宏 氏 41歳 / 男性
学歴:私立高校 卒
大阪大学 法学部 卒
『 内示 本社経理部より秋田工場管理への異動を命ず 』
それは私にとって、青天の霹靂の辞令でした。
2023年1月某日。
その日は在宅勤務をしていました。経理部長から電話があり、内示が出たので社内ネットワークで詳細を確認するように、と言われ、上記の内示を目にしました。
この内示を見た瞬間、今この瞬間が夢なのか現実なのかわからなくなりました。
私は10年間経理部に所属していましたが、経理の主要業務を担当しながらも内部統制や内部監査の責任者を任されていました。
また、DX推進の一環として多くのシステムを導入し、それを運用に乗せるPJにも参画していたのです。
ですから、次の異動先は監査部、あるいは会社がDX推進に力を入れるならシステム部もあり得ると考えていました。
いずれにせよ、異動先は本社の中に留まり、これまでに身に付けたコアスキルを伸ばしていけるだろうという未来だけを想像していたのです。
なのに異動先は、秋田工場の管理業務。
いえ、工場管理の業務が悪いというわけではありません。後述しますが、やりがいのある仕事であり、会社の期待の表れとしての内示だったと思います。
しかしあまりに予想外の進路を与えられ、私はひどく混乱したことを覚えています。
終業後はベッドに転がり、今日に至るまでの道程を思い返しました。
2008年、夏。
当時の私は法科大学院に在籍し、司法試験に向けて勉強をしていました。
上期に法曹演習という授業を受講したのですが、これは裁判所に行き、実際の法曹の仕事を知るという内容でした。
そこで目にしたのは、生々しい事件の数々です。法曹の仕事についてはある程度イメージしてはいたものの、これは大変な職業だと思いました。
また、当時は司法試験の受験回数に制限がありましたので、受験に失敗すると何の実務経験も資格もなく、年齢を重ねた状態で社会に出て行かなければなりません。これは自分にとって、大きなリスクだと考えました。
もちろん今はそうした受験者へのセーフティーネットも準備されているのでしょうが、当時の私は進路をスパッと切り替えようと考えました。
「民間企業で法務をやる。」
「これまでに培った法律の知識を、企業で活かす。」
スムーズにこの決断をすることができました。
そもそも私が法学部に進学したのは、将来的に役立つスキルを大学や大学院で身に付けようと考えていたからです。
そうであれば、スキルの発揮の舞台は違いますが、世の中のためになる仕事なら企業での従事は大歓迎といったところでした。
新卒採用において、私は川上メーカー、川中メーカーを志望しました。
具体的には、化学業界・鉄鋼業界・非鉄金属業界です。
なぜそれらの業界を志望したかというと、最終製品に至るまでに関係する業界が広いことと、販売スキームの根幹が確立されていることによる堅調さを感じたからです。今思い返せば、単純すぎる分析だったかもしれません。
そして就職活動を行うにあたっては、企業研究に力を入れました。
説明会には必ず足を運び、社員様たちの話を聞き、すでに民間企業に就職している友人に通話でヒアリングを行いました。
業界本やHPの事業内容説明から、それこそ掲示板のような海のものとも山のものとも判別のつかない情報まで。
一社一社を、第一志望と考えて研究しました。
新卒採用の結果、私は非鉄金属業界の会社に内定をいただきました。
配属は、地方の産業廃棄物工場に決まりました。ここで希望どおり、法務に就くことができると教えていただいたのです。
私は喜んで、その地方工場に向かいました。
新幹線で地方都市に行き、そこからは二両編成のローカル線に乗ります。最寄りの駅で下車した後、タクシーで40分。がらんとした社宅に、衣類だけを詰めこんできた鞄を下ろしました。
ここから全てが始まるのだと思うと、たいへん嬉しかったことを覚えています。
1) 初任地での実務
初任地はとても田舎だったのですが、これまで見たこともない風景に心も身体も洗われる思いでした。
直属の上司はグループ会社の中でも「厳しい」と有名な方で、毎日毎晩ご指導をいただきました。
その一方で、軽い冗談を言い合える同僚もできました。
プロパーの方からすると、「数年で異動するのに操業の邪魔をしにきた、厄介な大卒」というところでしょう。しかしながらプロパーの方は、仕事でも仕事の外でも本当によくしてくださいました。工場という組織に、そして彼らの生活に私を混ぜてくれたのです。
この時のご恩は、生涯忘れることはありません。あの時、あの工場に配属をもらえて本当に良かったと今でも思っています。
私のできることなどわずかではありましたが、少しでも工場の方々に応えたいと思い、自分のできる限りの仕事をしました。
新炉立ち上げの申請、操業関係各法の届出(産業廃棄物処理法・大気汚染防止法・水質汚濁防止法・騒音防止法・悪臭防止法等)、法改正調査、消防署への届出書類作成、職場リスク評価と対策業務、操業関係薬剤の調達、廃棄物最終処分の配車管理業務、ISO14001担当等が私の主な業務でした。
この中で「新炉立ち上げの申請」と「職場リスク評価」と「ISO14001担当」は異動後のスキルに大きな影響を与えることになるのですが、その時の私は露とも知りません。
「新炉立ち上げの申請」は多くの関係者を巻きこんで仕事を行うこと、「職場リスク評価」はリスク評価の考え方、「ISO14001担当」は被監査を経験するというスキルを、自分の中に築いてくれていたのです。
工場での生活も3年目に入ろうかという時、あれはとても蒸し暑い日でした。田舎独特の濃厚な甘さを含んだ風が、窓から吹きこんできていました。
私は上司に会議室に呼ばれ、本社転勤・経理部所属になることを告げられました。
大変悲しかったです。私はその当時、経理のことを何も知りませんでしたが、そのことが特に大きな問題だったわけではありません。
この工場に慣れ、人との関係が豊かになってきていたにも関わらず、ここを去らなければいけないことに大きな悲しみを抱いたのです。
しかしこれも会社員として当然の務めですから、手持ち案件はできるだけ片付け、引き継ぎを終えた上で工場を去りました。
最終日には、工場の方々が空港まで見送りに来てくださいました。
雨の中の離陸でした。しかし飛行機が雲を抜けた瞬間、空は澄み渡っていました。
私は工場での生活を思い出し、心の中で深い感謝を繰り返しながら関東へと向かいました。
なお、この工場の方々とは今も連絡を取り合っており、個人的な旅行としてよくこの地を訪れています。
2) 本社に帰任後の実務
関東に到着した後、見知らぬ電車に乗り、見知らぬ街を歩きました。
私は元々田舎の出身ですから、目にする景色の全てが新鮮でした。林立するビルも、郊外の住宅地も、自分にとって初めての場所だったのです。
私はまず荷物を整理し、その翌日に本社へと出社しました。本社の窓からはスカイスリーや東京タワーが見えました。
東京の街は白いのだ、と思いました。「自分はとうとう東京に来た」のだと感じたのです。
本社では経理部に所属し、まずは一般的な経理業務(単体決算の売上計上と原価計算・持分法適用会社の経理処理・デリバティブの取引チェック等)を教えていただきました。
「売掛金」という言葉すら知らない状態でしたから、初めての決算で「売上原価」を会計システムに入力するところ「売上」の数字を入力し、事業会社の方と経理部の先輩にひどく叱られました。
早くに知識をつけなければならないと思い、空き時間や休日には簿記のテキストを開きました。セミナーにも積極的に参加し、徐々に経理業務というものの全体像が見えてきました。
経理部に配属となって半年が経った時、私は経理部長に呼ばれました。
内容は、「基幹システムの更新を行うので、今の業務を全て手放してPJに参加してほしい」というものでした。
同時に、「J-SOX業務のリーダーが異動することになったので、その引き継ぎも行ってもらいたい」という指示が加えられました。
今思えば、この指示こそが私の現在のコアスキルの始まりだったのです。しかし当時の私はやはり、そのことに気づくことができませんでした。
PJで私が与えられた役割は、システム部・ベンダーと協同しながらシステムの仕様を設計していくというものでした。
しかしまだ私は、経理業務の全てを理解しきっていません。また、自部門ではどうしてもわからない要望や課題もあります。
すなわち私はPJの中で、部門内外の方々から業務の内容をヒアリングし、要望と課題を抽出し、それを咀嚼して製造側に送りこむ役割を求められたのです。
わからないことばかりでした。
まだ充分に知らない経理処理については勉強をしなければなりませんし、会社の運用というものを、業務フローを通じて理解しなければなりません。
事業会社や事業子会社からは連日、問い合わせと苦情が届きました。中にはきつい言葉もありました。しかし私は「みんな、仕事を良くしたいと思っているからこそ、このような言葉が出るのだ」と考え、ベンダーと強烈なディスカッションをしながらシステムをつくっていきました。
約2年をかけて、システムは無事にカットオーバー。PJの全員で中華料理屋に打ち上げに行ったのを覚えています。
稼働後も課題が出たり問い合わせが入ったりしましたが、そのような時は必ずユーザーのところに足を運ぶようにし、やがてシステムは軌道に乗っていきました。
このPJにより私は、「一つの仕組みを全社に展開する」という経験を得ました。
この頃、J-SOXの業務を同時に行っていましたが、これもまた厳しいものでした。
J-SOXが導入されてからまだ数年しか経っておらず、業務フローもリスク評価も監査計画も監査範囲も、突貫工事が終わった状態のまま運用されていたのです。
しかも前任者の急な異動とあり、引き継ぎ期間はほぼありません。とはいえ、会計システムの導入が終わるまでは大規模な見直しが難しかったので、まずは内部統制の理解と資料の統一から着手しました。
そしてJ-SOXに腰を据えて取り組める状況となってからは、監査法人対応を行いながら毎年の業務プロセス統制監査の責任者を担い、8年をかけて社内重要製品のリスク評価とJ-SOX導入を行いました。
事業会社と事業子会社に業務の流れをヒアリングし、それを基にフローの新設・変更を実施したのです。
こうして、不十分だった状態は徐々に改善されていきました。しかしそれらの道程は決して華々しいものではなく、大変地味で根気のいるものでした。
内部統制における業務整備や、それへのモニタリングとしての内部監査は、表面的には他部署に対して工数をかけるだけの業務と捉えられがちです。しかし内部統制を確立することで、業務安定化・手戻り防止等ができ、本来的には業務工数削減の効果があると私は考えたのです。
また、不正やミスを防止することで、各所が安心して事業を営むことができる状態を導きたかったのです。私は各所の組織体制等の現状を必ず把握し、コミュニケーションと合意を通じて内部統制を整備するように努めてきました。
こうした地道な取り組みが評価され、私は社長から社内の内部統制推進委員に指名されました。自分のコアスキルが定まってきたということを認識しました。
そして私は、内部統制・内部監査という業務を好きになっていました。
この「現場と真剣に向き合い、ともに良いものを作り上げていく」という経験がなければ、私の内部監査業務は片手落ちのまま終わっていたでしょう。その意味については、後述します。
さらに、内部統制・内部監査業務に力を入れる一方で、経理部の業務にも尽力しました。
まずは連結決算チームの担当者として。海外子会社決算対応・内部取引消去・各種連結仕訳起票・監査資料作成を行い、その後は責任者として連結決算業務を統括しました。
社内決算報告チームの担当者としては、連結BS・連結PL・原価表・総括表の作成を行い、その後は責任者として決算書作成業務を統括しました。
また、社内のDX推進の流れも止まりません。文書電子保存システム・経費精算システム・海外子会社財務情報チェックシステムの導入PJを推進しました。
特に海外子会社財務情報チェックシステム導入については社長表彰を受賞し、表彰式に出席できたことを今も誇りに感じています。
そのほか、経理部業務へのRPA導入PJも推進しました。
3) 部下を預かるようになって
経理部に所属してから5年が経つと、初めての部下を持ちました。自分のチームができたのです。
伝票起票チームとデリバティブの取引チェックチームを取りまとめましたが、部下の扱いについては失敗ばかりでした。
彼ら彼女らの能力を100パーセント引き出せていたかというと、やはり不十分なところはあったと思います。
それでも自分なりにマネジメントの意味を考えました。
まずは自チームの役割を認識して達成した上で、部下の教育に力を入れました。彼ら彼女らの未来が輝くことを願い、部内外の誰にでも信頼をしてもらえるような人間に育ってもらおうと思い、日々思考を巡らせました。
このように、経理業務の幅広い部分に携わることができました。
それぞれに力の限り取り組んだのですが、その中でも評価をいただいたのはやはり、内部監査業務とDX推進の各種PJについてでした。
社内内部統制推進委員だった私はさらに、社内内部監査委員の指名も受けました。
毎年の監査方針と監査計画を定め、各拠点の監査を実施したのです。監査内容は経理パートに限りません。もちろん経理パートは主な担当箇所でしたが、ガバナンス・人事給与・システム・購買・安全衛生等、その監査範囲は広いものとなりました。
グループ会社向けの内部統制説明会の講師も担当しました。
加えて、会計監査・J-SOX(FCRP)モニタリングとしての子会社監査の責任者にも就任しました。全社的なリスク評価をどう行うかについて頭を悩ませました。海外子会社の統制状況チェックも行いましたが、こちらも、どのようなチェックを講じれば実態を知ることができるかと案を巡らせました。
こうした内部統制・内部監査に関する業務への期待は高まる一方、当該業務への工数を割くため、連結決算等の一般的経理業務の役割は少なくなっていきました。
経理部所属11年目にして、「自分のコアスキルは内部監査だ」と強く考えたのです。
この仕事は面白い。この領域の知識と経験を増やしていきたい。
自分は内部監査のスペシャリストとして会社に、ひいては社会に貢献していきたいのだ――。
そこで話は、冒頭の異動辞令へと戻ります。
2023年1月某日。秋田工場の管理業務への異動内示。
私は迷いました。気持ちを落ち着かせるため、冬場なのにアイスコーヒーを飲み、それでも夢のような事態に思考を彷徨わせました。
まず、この工場はグループ内での基幹工場でした。その工場の管理業務ですから、期待されていることに違いはありません。
また、管理業務を担うことで見えてくることもあるでしょう。
しかし、この内示に従う形を取れば、現在進行でコアとして構築されつつある「内部監査」の業務を実施することはできません。
そして職務の内容だけでなく、秋田へと異動することで生じる様々な変化も想定しました。
そこで私は、現状と秋田行きとした場合の違いを表にまとめました。さらに、それらの要素について自分はどう考えているのか、ということを実際に文章として書き出しました。
書くことで、考えの整理ができると思ったのです。
会社員であれば異動・転勤という事象を避けることはほぼできません。それは私にとって特別なことでなければ、多くの会社員にとっても特別なことではないのです。
ゆえに、「異動を全て拒否したい」という考えはありませんでした。
あくまで客観的に、未来の自分の姿を考えながら事実だけを並べ、それに自分の価値観を当て込んでいったのです。
その結果、「今は職種を変えたくない」という結論に至りました。
10年後、15年後にどうなるかはわかりません。人間はそこまで先の未来を想像することができませんし、仮に想像したとしてもそれは非常に朧げな想定といえます。外的要因や価値観の変化によって、想定した未来は容易く変化するのです。
したがって、まずこの先の5年のことを考えました。事業の中期計画に似ています。
自分はまず、「内部監査のスペシャリスト」として今のスキルを磨いていきたいと考えたのです。
そうだとすると、今、脂が乗っている現時点において職務を変更したくないと思いました。
5年後には職種を変えてもいい。ゼネラリストとして生きていく未来もあるかもしれません。
でも向こう5年は、内部監査の知識と技術を極めていきたいと考えたのです。
状況を「表にして比較する」、思いを「文章にする」。
この取り組みは、私にとって成功であったと言えます。
これから転職を考えられている方も、現在転職活動中の方も、今一度整理をしてみることをお勧めします。表や文章、という形にして整理をするのです。
もしかしたら転職を見合わせたり、今の志望とは違う転職を志向されるかもしれません。
今の方針と変わらない形で転職活動を続けられる可能性も、もちろんあります。
いずれにせよ、転職活動の入口として大切なのは「今の自分と対話をすること」だと思いました。
そして私は転職を決意しました。
過去に人材サービス関係の会社で働いていた友人に相談し、大手転職サイトに登録しました。
登録後すぐに、複数のエージェントから連絡が届きました。最初は「スカウト」という単語を見て喜んだものです。特別なスカウトを見れば、自分の能力や経験が特別なものと捉えられていると思い、たいへん嬉しく感じました。
しかし数日が経ったころ、これらのスカウトはある種、ばらまきのように送られているということがわかりました。
私の志望職種などまったくおかまいなしに送られてくるメッセージもありました。
そこで私は各メッセージの中身を分析して表にまとめ、どのエージェントがちゃんと自分のことを考えてくれているのかを判断しました。
判断項目としては希望職種や希望年収等がありましたが、突き詰めれば結局は「自分のプロフィールを読んでいるか」ということを複数の情報から判断していったのです。
そんなある日、(株)エリートネットワークの転職カウンセラーの梨本さんという方からメッセージが届きました。
メッセージの内容を拝読するに、どうやらきちんとプロフィールと希望内容を読んでくださっているようです。
また、梨本さんのプロフィールを拝見すると、私の大学の後輩であることがわかりました。私は梨本さんのメッセージを信頼し、大学が同じであるということに縁を覚え、梨本さんに返信しようと決めたのです。
梨本さんとの面談の日程はすぐに決まりました。それは異動内示が出てから一週間くらいのことでした。
梨本さんはまず、私の歩んできた道や今後への姿勢について、親身になって話を聞いてくださいました。
その際に履歴書と職務経歴書の書き方の説明を受けましたので、直ちに作成して送信しました。梨本さんは一回目の面談で私から抽出した情報を基に、履歴書・職務経歴書の修正について適切なアドバイスをくださいました。
履歴書と職務経歴書が完成に向かうのと並行して、梨本さんからお勧めの応募先会社の一覧が届きました。
それは、すでに私が提出していた希望に基づいていました。適切な一覧だったと言えます。
しかし梨本さんは「書類選考の状況に応じて、軌道修正をしながら進めるのが良いかと思いますので、まずは14社程度までに絞りましょう。それより応募すると時間が取れなくなりますし、管理が難しくなってきます」とアドバイスをくださいました。
そこで私は応募先を絞ることとしたのです。
応募先を絞る。
これは、ゲームではありません。自分の今後の四半世紀に大きな影響を与えることです。
私はここで選び、そして合格した会社で長く働いていく。それは人生そのものではないか。
であれば、なんとなくで定めることはできません。
それに、大変失礼ながら、梨本さんお一人からのお勧めを基に絞ることもまたリスクがあると考えました。
今回の転職では、梨本さんに大変お世話になりました。梨本さんがいらっしゃったからこそ、私の未来は切り開かれたといえます。
しかしそれは結果論であって、「気が合った」「話が合った」からといって一人のエージェントの方を信じきることはリスクを含んでいると感じます。私は梨本さん以外にも3人のエージェント様と連絡を取り、それぞれよりお勧めの会社の一覧をいただきました。
また、転職サイトを見に行き、希望に合いそうな会社を独自に抽出しました。
会社を抽出する際には、一社一社を深く見ました。
希望条件に沿うかどうかはもちろんのことですが、その会社がどのような歴史を辿り、どのような事業を手がけ、未来に向かってどのような方針を立てているのかを調べたのです。
その結果、私の内部監査というスキルをもっとも評価していただけるのは「変化に挑戦しようとしている会社」であると考えました。
もちろんどの会社も変化に挑戦しようとされていますが、その変化が大きければ大きいほど魅力的に感じられたのです。
なぜなら、変化の中には必ず「新たに発生するリスク」があるからです。そのリスクを分析してチェックを講じ、経営層に報告すること。これが、内部監査部門の発揮できる付加価値なのです。
このようにして私は、応募先を絞っていきました。
また、履歴書と職務経歴書も完成しました。これらの動きが2月初旬のことです。
自分でも、このあたりの動き出しと対応をタイムリーにできて本当に良かったと思います。
今になって思い返しても、ここの動きが最終的な成功に近づけてくれたのだろうと感じます。この動きにタイムリーに付き合ってくださった梨本さんには、深く感謝しています。
2月中旬から書類選考が始まりました。
合格率は4割といったところだったと思います。なるべく早くに面接ができるよう、梨本さんに日程の設定をお願いしました。
そして私は、書類選考に合格した各社の面接に対応できるよう事前準備を始めました。
基本的には会社研究です。
自己分析や過去の経験の棚卸は職務経歴書を作成する際に終わっていますから、後はとにかく、各社の研究に時間をあてました。
さらに、自分の希望する職種「内部監査」の知識を拡充させるため、専門書を4冊ほど精読しました。そうすることで業務の復習になりましたし、「監査のIT化」や「新しい形の監査(アジャイル型監査等)」等、時事的な知識を身に付けることもできました。
それでも、会社研究にはとにかく力を入れました。
これは新卒採用に応募したあの日から変わっていません。
応募先の会社は自分の人生に影響を与える、というか、自分の人生そのものになるのです。自分の人生そのものであるのだから、手を抜くわけにはいきません。
HPはもちろん全ページを精読し、株主説明会のアーカイブ動画を視聴し、業界の本を購入して読み、業界研究のサイトを訪問しました。
前職の日常業務がありましたので、時間には限りがあります。しかし、その限られた時間の中で自分のできる全てことをやっておきたいと思ったのです。
そしてそれら膨大な情報の中から、自分の志向性とマッチするものを文章にまとめていきました。想定質問と、その回答も考えました。それら話すことの全てを、実際に声に出して何度も練習しました。
面接は自分の人生そのものでありますし、先方の会社の方も自分のために時間を使ってくださるのです。そのような中で、失礼なことはできないと思いました。
これら、自分のできることを全てやった、というのは転職活動において良かった点だと思います。
ところで、前職の会社には転職活動のことを黙っていました。
転職活動に集中するため会社を辞めようとは考えませんでした。会社を辞めれば収入が途絶えます。そうすると安定した精神状態で転職活動に取り組めなくなると考えたからです。
また、転職活動をしていることを会社に告げて在籍するというのも現実的ではありません。なんらかの障壁が生じるでしょうし、今の会社で働き続けるという結論に至ったとしても「転職活動をしていた」という事実は人事的なマイナス評価として残るでしょう。
したがって私は、秋田異動の4月1日までに転職が決まらなければ、秋田に異動するつもりでした。そしてそこで任された仕事には全力を投じ、かつ転職活動も継続する予定だったのです。
今はWEB面接という仕組みがありますし、実際転職活動の一次面接は全てWEB面接でした。
また、もし対面で面接が求められた場合は、なるべく業務を前倒しで終わらせて有給休暇を取得し、秋田から飛行機で関東に向かうつもりでした。
この『転職体験記』を読まれている皆様も、外的要因が変化した場合、転職活動についてどのような姿勢で取り組むかについては想定しておくのが良いかと思います。
さて、いよいよ2月の中旬から一次面接が始まりました。
この頃には他のエージェント様にはお断りの連絡を入れ、梨本さんと本格的にタッグを組みながら進めていこうと考えていました。
どの面接も比較的スムーズに、楽しくコミュニケーションすることができました。
そういえば、梨本さんにこの『転職体験記』の執筆を依頼された際、「転職活動の反省点」も教えてほしいとうかがいましたが、実際のところ反省点はあまりありませんでした。
それは私が優秀だったわけでも、転職活動の進め方を熟知していたからでもありません。
ひとえに梨本さんによるサポートと、あとは幸運の成すところであったと考えます。
しかしせっかくなのであえて1つ反省点を書くとすれば、WEB面接における接続環境についてです。
私は面接の2社目としてある銀行様と面接のお約束をしたのですが、その日は千葉の工場監査に出ていたのです。工場から自宅に戻ると、面談の時間に間に合いません。
そこで私はビジネスホテルを予約し、ホテルの部屋でWEB面接を行おうと考えました。しかしビジネスホテルのwifi環境があまり良くなく、面接の途中で十数回のフリーズが発生しました。
結局、この選考は落選でした。私の志向性と先方の求めるものがマッチしなかったこともあるでしょうし、私の技能が未熟だったこともあります。
しかしこのように十数回のフリーズを発生させたことは、先方に対して大変な失礼を働いてしまったものだと考えています。
あの時、wifi環境が悪いと判断したならば、PCからスマホに接続を切り替え、スマホの回線で接続すべきだったのです。
自分の判断の遅さについて反省しました。これは先方に対して、まことに失礼なことでした。
話を戻します。
一次面接でも二次面接でも、果ては最終面接でも同じなのですが、結局は自分の言葉で話せるかどうかだと思います。
自分の言葉といっても、文学的な表現を準備せよというわけではありません。特別な価値観で物事を考える必要もないのです。ありふれた言葉でかまいません。よくある価値観でも結構です。
ただ、そこに至るまでに「自分との対話」「経験の棚卸」「入念な会社研究」があったかどうかで、言葉が放つ雰囲気は全く異なってくるのです。
また、それらに力を注いでいれば、おのずと自分の言葉が生まれるでしょう。自分が「自分の言葉なのだ」と胸を張って言えるものが流れてくるはずです。
その自信、そして胸を張って話せる力こそが、面接において大切なものなのだと思いました。
2月下旬から3月初めにかけては出張があり、その期間に面接を入れることができなかったので、選考に支障がないか心配になっていました。
しかし前職の仕事も、きちんとこなそうと思っていました。仕事をないがしろにしては、良い転職活動ができない。これら2つは両輪のようなものなのだ、という気持ちでした。
とはいえ、心の中では大変不安を感じながら、なんとかある会社の最終面接の日程が決まりました。
その会社は奇しくも、私の第一志望の会社でもあったのです。梨本さんから最終面接の案内をいただいたとき、あまりの嬉しさに部屋の中でエアボクシングをしたことを思い出します。
最終面接は本社の会議室で行われました。
私は気負うことなくいつもの自分であろうと心がけ、同時に、決して緩みのないよう「伝えたいこと」を繰り返し練習して臨みました。
最終面接では先方の監査役がいらっしゃいました。
最後に、「君にとって内部監査とは何か。自分の言葉で答えてください」という質問をいただきました。
私は、こう答えたと記憶しています。
内部監査は経営に資するものです。
リスク評価・分析・コントロールの提案という側面を経営者に伝え、会社の方向性に影響を与えるものです。
事業・組織・業務等の幅広い情報をとりまとめ、それを知ることのできる魅力があります。経営に関わることができるという魅力があります。
そこでは、信頼できるビジネスパートナーとしての監査人を目指したいです。
同時に、内部監査は現場と接するものです。
現場の実情を知り、現場とディスカッションをし、現場と一つのものを作り上げていく業務なのです。
監査人は常に現場のことも考えなければなりません。現場の方が安心して働けるように、事実を知り、知恵を絞る。
場合によっては、工数を減らすという付加価値も提供したいと考えています。
内部監査は、経営と現場を「リスク」という要素で結ぶものなのです。舫い綱のように、繋げる役割を担います。
この両面を成し遂げることこそが、私にとっての内部監査なのです。
前半は教科書的な、一般的な見解です。
しかし後半を述べることができたのは、今までの会社生活で多くの人と一緒に仕事をしてきた経験が導いてくれたからだと思っています。
これからもずっと、一緒に仕事をしてくださった方への感謝を忘れずにいたいと思っています。
最終面接の後、とても幸せなことに内定をいただきました。
窓から、東京の街が見えました。相変わらず白い街でした。
この白い街で、これから自分は何をやっていけるのか、どうやって社会に貢献していけるのか。気持ちが新たになりました。
またここに、スタートラインを引けたような思いになったのです。
それは3月6日、春の入口のことでした。
それからの流れは、読者の皆様の想像されるとおり、よくあるものでした。
まずは前職の会社に、退職の旨を伝えました。引き継ぎ自体は異動の関係で2月中に終わっていましたので、今の手持ち案件について一つずつ着地点に導いていきました。
そういえば、退職の直前に、嬉しかったことがありました。
前職の会社では自己都合退職の場合、送別会を開きません。それが慣例でした。しかし私の退職にあたっては、半月をかけて部署を変え9回の送別会を開いていただきました。最終日には記念品と花束をくださり、集合写真を撮影してくださいました。
自分は特段能力のある人間ではないのですが、こうやって沢山の人に愛されてきたのだなと感じました。
それはきっと、自分が職場の方をたくさん愛してきたからだと思います。鏡うつしのように、愛情はお互いを照らし合わせてくれるものなのでしょう。
私は転職活動を行っている途中に『転職体験記』を拝読しました。
正直な感想として、「この世にはすごい方々がいるな」と感じました。
私は英語を話せません。海外に駐在した経験も留学した経験もありません。ITの知識もなければ、特別な資格もなく、理系の高度な知識を有しているわけでもない、平凡な一人の会社員なのです。
ですから『転職体験記』を書かれた皆様のことを、尊敬の目で見ていました。
それと同時に、もしかすると、私を尊敬の目で見ている後進もいるかもしれないとも思いました。
人間には得手不得手があって、それでも過ごした時間は皆平等に流れていたはずです。
私は「内部監査」の技術を深めていこうと決めましたが、それは私にとっての正解に過ぎません。
皆それぞれに志向性があり、目指すところがあるのだと思います。
ゆえに、現状に明確な優劣などはありません。
それぞれがそれぞれのやってきたことに自信を持ち、そしてやはり他者への尊敬の気持ちを持ち続ければ、健やかに前進していけるのではないかと思うのです。
だから私は、「平凡な自分」に自信を持ちながら、それぞれの航路を進み続ける皆様を尊敬します。
そしてお互いに交わる時があれば、笑顔で接したいと思います。
この気持ちは、新しい職場のメンバーに対しても同じです。
転職活動を行う中で、また、『転職体験記』を拝読する中で、そのような気持ちになることができました。
慢心はしないように心がけながらも、自分のやってきたことに自信を持つ。過去の自分を評価してやる。
そして他者への尊敬を忘れない。
いつか未来の自分に誉めてもらえるように、自分なりのやり方で新しい職場で頑張っていきたいと思います。
自分をここまで引き上げてくれた社会というものに、少しでも貢献していきたいと考えています。
2023年5月某日。
驟雨はやみ、今はただ、新たな晴天が頬を照らしてくれているような気持ちです。
最後になりましたが、前職の会社の皆様へ、心からの感謝を。優しく、時には厳しく育ててくださり、まことにありがとうございました。
そして、エリートネットワークの梨本さんにも深い謝辞を申し上げます。
目の前にスタートラインを引くことができたのは、梨本さんのお蔭です。まことにありがとうございました。
これからも、どうぞよろしくお願いいたします。
転職活動を行う皆様の幸せが叶いますことを、心より願っております。