東証プライム上場 財閥系デベロッパー 総合職
東証プライム上場 老舗映画配給会社 総務部→映画プロデューサー
市之瀬 貴信 氏 36歳 / 男性
学歴:愛知県立 一宮高等学校 卒
東京大学 法学部 第3類(政治コース) 卒
TOEIC 815点
簿記 3級
新卒の時には、エンタメ業界、特にテレビ局に行きたいと考え、かなり絞って就職活動をしていました。
もともと映画やドラマ、ドキュメンタリー番組が好きで、それを作る仕事がしたいという気持ちを持っていたからです。
そこで描かれる人間模様が何よりエンターテインメントですし、何かしら人の考え方や人生に影響を与えられることも魅力的に感じていました。
大学時代の後輩が、イタリアが舞台の映画をきっかけにイタリア留学を決めたことがあり、その実例を目の当たりしたことも影響していたかと思います。
また、実家が自営業だったのですが、祖父の急死もあり父は嫌々仕事を継いだため、父の仕事姿が楽しそうでなかったことも、「自分はやりたいと思う仕事を選びたい」という思いを強くさせ、エンタメ業界に絞り切って就職活動をしていました。
本来は映画制作も第一志望で目指したい業界でした。
しかし、大学時代に映画サークルで映画制作をした経験から「映画制作には才能がないかもしれない」と(勝手に)思い込み、テレビ局をメインに、映画会社は記念受験的にエントリーをしていました。
それゆえ、OB訪問も、キー局は全ての先輩に話を伺いに行きましたが、映画制作会社は大した企業研究もしないままでした。
ところが、テレビ局のキー局はもちろん地方局も上手くいかず、結局、記念受験にエントリーした映画会社だけは各社順調に選考が進み、「これは運命なのかも」とも思い入社を決めました。
そして映画会社に入るからには、 “ 映画プロデューサー ” を目指そうと決意しました。
入社した当時、新人は4年目までは必ず2年ずつ2部署をローテーションするシステムでした。
最初に配属されたのは総務部。株主総会や社内報作成、備品の整備など、社会人の基本を学ばせてもらいました。
また、1年目の終わりに東日本大震災が発生したため、総務部は大忙しになりました。
地震当日は部署の上長が悉く社内に不在で、社内放送でのアナウンスを私が行いました。不謹慎かもしれませんが、このことが一気に社内に存在を知られる機会にもなりました。
総務部での業務と並行して映画プロデューサーを目指し、希望部署へのアピールも込めて、作成した映画の企画書を度々担当の部長に送り付けていました。
この会社にはそういう若手も多く、決して珍しいことではありませんでしたが、そのうちの1本が偶然、担当部門でも見落とされていたマンガだったため、私の企画書をきっかけに権利獲得に動くという幸運もありました。
(結果、その作品は権利取得出来ず、某キー局でドラマ化されました)。
そんなアピールも実ったのか、3年目に希望の映画プロデュースの部門に配属されてから11年ほど在籍しました。
業務は、特に最初はひたすら映画のタネを見つけること。
小説、マンガは新作が発売されるたびに悉く読み漁り、面白いものは企画書を作り上司に提案、そして課題を突き付けられる日々を繰り返しました。
そんな期間が1年半くらい続きましたが徐々に企画が実り始め、配属3年目に自身の企画した作品3作が一気に制作に入り、初めて「プロデューサー」と名乗ることになりました。
その時の嬉しさは何物にも代え難いものがありましたし、何より親や親戚が非常に喜んでくれました。
そこに至るまでは、ネタ探しの努力ももちろんですが、同時に人間関係を広げることもかなり意識的にしていました。
クリエイターや出版社の方々の他、テレビ局、同業のプロデューサー達と繋がったことで情報も入りやすくなり、動きが効率的になったことも成果に繋がったのだと思います。
スキルとしては、初対面の方にどう話し、どう印象に残るかというコミュニケーション技術を知らず知らずのうちに身に付けていたのだと思います(根は人見知りです)。
実際に作品を制作していくフェーズが増えてきても、このコミュニケーション技術は役に立ちました。
映像のスタッフはいわゆる職人的な方も多いので、そこに若くしてプロデューサーとして入っていくのはかなり緊張しましたが、如何にリスペクトしつつある程度不遜に親しみある会話をしていくか、メソッドはないですが、そういったバランス感覚を磨いていったのだと思います。
映画プロデューサーは、ひたすら企画・制作して公開する、を繰り返す仕事で、お祭りみたいな面白さがあります。
毎回新しいことを出来る面白さがある一方で、どうしても作品単位で動くため、一つのプロジェクトが2~3年で完結してしまいます。
これを何作も並行してやるので、業界の10年後を見据えるような大局的な映画制作は、よっぽどの大型シリーズ企画でない限り難しく、「これを繰り返していいのだろうか」という気持ちを徐々に持ち始めるようになりました。
数年前に子供が生まれ、「この子達にも届くものは何か?」という視点を持ち始めたこともきっかけの一つです。
また、趣味を仕事にしたこともあってプライベートと仕事の境目がかなり曖昧なことも、このまま映画プロデューサーを続けられるだろうかと不安を覚えた一因でもあり、転職を考え始めました。
とは言いつつも、10年以上プロデューサー業を続けてスキルを培ってきたので、転職するならば同業、同職種の仕事しかないと思っていました。
また、待遇を絶対に下げたくはなかったのですが、所属の会社は業界大手だったこともあって結局プロデューサーをするなら今の環境がベストだなと思い、中々行きたい転職先が出てこないまま数年を過ごしていました。
そんなときに、(株)エリートネットワーク様と面談する機会を得て、今回の転職先をご紹介頂きました。
待遇面はもちろんですが、その会社のキャリア採用が敢えて同業の経験者は採らない、という採用をしていたことに好感を覚え、興味を持ちました。
その仕事に映画プロデュースに似たものを感じましたし、何より培ったコミュニケーション技術が活かせると思ったことで、同業・同職種の仕事に拘らなくても良いのかもしれないと考えるようになりました。
そういう意味では、エリートネットワーク様と面談しなければ今の転職先は選択肢にも入らなかったので、私の人生をとても変えた面談だったのだなと今振り返ると思います。
転職活動を通し、自分の仕事を言語化出来ていないことに気づきました。
長く同じ仕事をしていたことでどこか感覚値で処理出来ていることもあったからですが、良くないことだと気づかされました。
自身の仕事を言語化することは、自己分析をして成長していくために必要なことであり、同僚や部下に技術をシェアしていくためにも必要です。
そういう意味では、転職を実際にしない判断をしたとしても、社会人として成長する機会を転職活動を通じて得ていたのだと思います。
加えて、「特別な能力」がなくても、自身を魅力的に語ることは十分で出来るんだ、とも思いました。
きっと、相当な方でない限り「特別な能力」など持っていないですし、社会人に必要とされる一般的な能力を如何に自分なりの方法と考えで極めてきたかが多くの会社でも大事なのかなと思います。
私のアピールポイントとなった「コミュニケーション力」、「気持ちや頭の中の概念を言語化する力」も決して特別な能力ではありませんし、10年以上の経験を通して得たものでしかないのですが、中身を分析したり、エリートネットワーク様のアドバイスを得たりすることで、魅力的な側面を炙り出すことが出来たと思っています。
これから新天地に挑戦しますが、正直不安がいっぱいです。
果たして自分は今から新しいことを吸収し切れるのか、同僚達についていけるのか、夢見たけど全然向いていないと感じてしまったら……。
もちろん一方で、数か月前まで現実になるとは想像しきれていなかった人生の新たなフェーズに、期待とワクワクも持ち合わせています。
何より前職の上司達に退職を告げた際、有難いことに、新しいことへの挑戦を非常に応援してもらえたため、何が何でもやり切る覚悟でいます。
この文章が「転職 “ 成功 ” 体験記」だったと後に言えるように。