NTTデータ3年、畜産農家10年。振り幅の大きい職歴を活かすべく、人材紹介会社へ

NTTデータ3年、畜産農家10年。振り幅の大きい職歴を活かすべく、人材紹介会社へ

No.1497
  • 現職

    株式会社エリートネットワーク 情報管理部 社内SE

  • 前職

    株式会社NTTデータ G-ITカンパニー 流通サービス事業本部 システム運用・監視
    →畜産業(肉牛の繁殖・出産育成・肥育)

境 剛志 氏 37歳 / 男性

学歴:私立 桐光学園高等学校 卒
東北大学 理学部 地球物理学科 卒
東北大学大学院 理学研究科 地球物理学専攻(流体地球物理学講座) 修了
修士論文タイトル:「局所アンサンブル変換カルマンフィルターを用いたドップラーライダーの観測システムシミュレーション実験」

<転職体験記を書くにあたって>

この体験記をお読み頂いている方は、少なからず転職について検討されている方かと思います。
誰しも生きていく上で経済的な裏付けが必要となる以上、収入を得る仕事を変えることは、大きなターニングポイントになることは間違いありません。
私個人がその決断をするまでに、どういう経緯があり、どういった環境に身を置き、どういった背景・状況にあり、結果として転職するに至ったのか、幼少期からのかなり細かい思い出まで書かせて頂きました。
実際に転職をする・しないに関わらず、こんなバックボーンで転職した人がいるんだなと、少しでもお読み頂いた方々の参考になることが記載できていれば幸いです。

受験失敗も充実した中学校生活

生まれは神奈川県横浜市。大手電機メーカー勤務の父親と、元化学メーカー勤務の母親の元に、2人兄弟の長男として生まれました。

中学受験に挑戦するものの、全ての志望校に落ち、地元の中学校に進学しました。幼稚園から続けているサッカーに励むためサッカー部に所属し、横浜市の大会で上位に入り県大会にも出場していた他、最終学年時には生徒会長として生徒会活動にも励み、受験に失敗して落ちこぼれた感情を抱きつつも充実した中学校生活を送りました。

高校受験でも失敗、それでも充実した高校生活

高校受験では、東京学芸大附属高校、桐朋学園高校を受験しましたが不合格。早稲田学院高等学校、桐光学園高等学校に合格しました。
「エスカレーター式に大学に進学するよりも、もう一度大学受験でチャレンジできる環境の方が良いのでは?」との両親から助言もあり、桐光学園高等学校を選択しました。今でも良い選択だったと思っています。両親に感謝です。

同校はサッカーでは中村俊輔選手、野球では松井裕樹選手を輩出するなど、スポーツも盛んな学校であり、プロを目指すような部員が数多くおりました。
そんな中、部活動でサッカーを続けるには技術差が大きく、志向を変えて文化祭実行委員会に所属することにしました。(柔道の授業がスポーツ推薦クラスと合同だったため、ポンポン気持ち良いように投げられておりました。プロを目指す同期の力量を身をもって知れたのは良き思い出です。)
小学校〜中学校時代にピアノを習っていた経緯から音楽活動にも興味が湧き、軽音バンドを組み、文化祭実行委員会の立場を良いことにバンド会場をセッティングして自ら出演するなど、これまた先生方にご迷惑をかけつつ好き放題に高校生活を謳歌しておりました。

両親からの忘れられない思い出

両親との高校時代の忘れられない思い出が一つ、携帯電話についてです。
私立高校であったこともあり、友人のほとんどが携帯電話を所有していたため、自分も持たせてくれないかと両親に持ち掛けました。
当時、大変多忙で朝早く出勤、深夜に帰宅していた父親とは直接会話できていなかったのですが、ある日、封筒に入った手紙を母親経由で受け取りました。
そこには、携帯電話を欲しがる理由が理解できること、私の性格を踏まえた上で携帯電話を預けた場合に想定される行動、金銭的な面での家庭の事情など、A4紙3枚に渡り、詳細に現時点では預けられない理由が書かれていました。
正直に、赤裸々に、自分をしっかり見た上で言葉を紡いで伝えてくれたことに、自分本意の発言に恥ずかしさを感じたこと、真剣に向き合ってくれた両親に感謝したことを鮮明に覚えています。それ以来、(多分)卒業するまで携帯電話について話題に出したことはなかったと思います。

受け身の受験から脱却、初めて自分で決めた進路

高校時代、両親に勧められて見た『NHKスペシャル』の地球温暖化に関する番組を見たことをきっかけに、気象分野への興味を非常に強く持つようになりました。(私の人生の大きなターニングポイントの一つであり、これまた今でも番組を紹介してくれた両親には感謝しております。親の立場になった今、自分の子どもにも様々な情報提供をしていきたいと思っています。)

当時、気象分野を研究している大学は、北海道大学・東北大学・東京大学・名古屋大学・京都大学が活発であったことから、大学受験ではこれらの学校をターゲットに設定。
一方で、国語が極めて苦手だったこともあり、受験科目・配点比重で国語が低く設定されていたのが東北大学であったため、最終的に東北大学に絞って受験に挑むことになりました。
オープンキャンパスにて研究室訪問もさせて頂き、地球温暖化研究の第一線を教授から直接お聞きできた(後程母に聞いたら2時間も質問攻めをして話をしていたらしいです……)ことも、志望度合いが強まるきっかけでした。

最後まで諦めずに成功した経験

受験まであと1ヶ月の高校3年生の1月、この時点での東北大学の合格見込みはDランクで、先の暗い中、何が正解かわからずにもがいて勉強していたことを記憶しております。
そんな中、何がきっかけかは今でも判然としないのですが、残り1ヶ月のある日突然、数学の問題が解けるようになりまして、過去問でも合格ラインを突破できるようになりました。
何やら必死に頑張って、もがいていると、できるようになるもんだと、このとき強く感じたものです。不思議な感覚でした。
結果、東北大学の合格を無事に獲得することができました。

初めて親元を離れて一人暮らし

これまで関わってきた親戚・友人のいない仙台の地へ引越し、一人暮らしを始めた大学時代。
引越し初日にあまりに疲れて、3月末の仙台の気温を全く知らない私は、布団を出しもせず雑魚寝してしまいました。翌朝に両親が訪ねてきた時、カタカタと震えながら寝ている姿に大笑いされたのは良き思い出です。(今でも語り草です。)

買い物・料理・洗濯を頼り放しにしてきたため、最初の1ヶ月は結構大変でしたが、そのうちに、親からの仕送りをいかに残しつつ自炊等で節約できるかを目指すようになっておりました。昼のお弁当も自分で作ったりして一番節約出来た時で、家賃も含めて月6万円でした。(今、親の立場になて、毎月仕送りをしてくれていた両親には感謝以外の何ものもありません。)
必要なものはお金をかける、節約出来るところは節約する、そういった精神はこの時が起源の様な気がしてます。

落ちこぼれ意識からの脱却

入学した学科は東北大理学部物理学科になり、大学2年生まで基礎過程を学びます。
大学3年生からは、物理学科(約5割)・地球物理学科(約3割)・天文学科(約1割)の3つの学科に、志望・成績を元に進みます。
一番人気で定員も少なく難易度の高いのが天文学科ですが、私の志望は地球物理学科のため特に問題なく進むことができました。
配属はオープンキャンパスで訪問した研究室に決まり、ここまで来てやっと、中学・高校以来感じてきた落ちこぼれ感からやっと脱却できたなぁ、とその夜に一人感慨に浸っていたことは深く記憶に残っております。

自由に打ち込める唯一の時

一層晴れやかな気分になった配属後は、先輩・教授を振り回すくらいに駆け回っておりました。
地球物理学・気象学の数式・経験則をプログラミングして作成した気象モデルを用いて、数値予報の精度向上を目指すことが同研究室のテーマでありました。
その研究環境にLinuxでのプログラミング(Fortran)が必要と分かれば、すぐにWindowsを消してLinuxをインストールして、強制的に日常のパソコン環境を変えてしまったり。昼間の時間だけでは足りなくなってしまい、研究室に小さなリクライニングソファーを買って持ち込んで、寝泊まりしながら過ごしたり。
その中でも、気象庁・気象研究所・NICTなどと共同で研究できたことは非常に有意義な時間であり、社会人とは異なり利益・損失など考えることなく一つのテーマに没頭して打ち込めた機会は貴重でした。(人生でこれだけ充実した日常を送れるのはこの時だけだと思います。)

今しかできない思い切ったことがしたかった

大学院の入学試験もありましたが、参考となる先輩方の残した答案集などもあり、半月ほど集中的に勉強することで無事に合格を獲得できました。
その後、原付バイク(ホンダのカブ)で東北一周旅行をしました。
友人たちからすると唐突に見えたようですが、前年に学科旅行で白神山地に行き感銘を受け、再度一人で訪れたかったことに加え、本格的な研究活動を前に今だからできる思い切ったことをやりたいと考え、実行に移しました。
テーマは「その日の宿は夕方まで決めない・その日の目的地は朝に決める」でした。時間的にも余裕があり、決められたレールの上を歩くより、ハプニングを楽しんでみようと考えました。

出発してから帰ってくるまで全10日間・1500km程度の行程でした。
道の駅で宿を尋ねれば直々に道案内をしてくれる方、素泊まりで泊まったのにリンゴや朝食を作ってくれた宿のオーナー、白神山地のガイドさんに至っては遠方から折角来たのだからと自宅にお招き頂き宿泊させて頂くことに。東北地方の人の良さ・心の暖かさに加え、人として基本の挨拶・感謝の心根の大切さを対面で体得しました。
これまで首都圏・仙台と、人口の多いところ以外に生活圏がなかった自分に、新しい風を入れることのできた貴重な機会でした。

研究テーマ

少しですが大学の研究内容にも触れておきます。
大学・大学院時代に打ち込んだ研究テーマは「ドップラーライダー観測による風の観測データを用いた、局所アンサンブルカルマンフィルターによるデータ同化による、気象数値予報の精度向上について」になります。

気象数値予報の計算データ(第一推定値)に、観測データを反映させて、より現実に近い計算結果(解析値)を導き出すことをデータ同化と言います。
ドップラーライダー観測とは、周囲にライダー波を発射して空気中のチリなどで反射された反射波を測定し、反射波の戻り時間から位置情報を、反射波の周波数の変化(ドップラー効果)からその位置の風速情報を観測することです。

細かい部分は割愛してまとめますと、観測データを用いることで数値予報を上手く精度向上させる研究でした。
この時に、地球物理学、気象学のみならず、研究に必要な計算機資源や付随して各種サーバ類のメンテナンスをしていた経験が、その後の新卒採用に向けた就職活動に繋がってきております。

就職活動

数値予報の研究を深め博士課程に進み研究者としての道を進むこと、国家公務員試験を受け気象庁への入所を目指すことも考えました。
しかし、研究テーマとしていたデータ同化手法が国外で評価が高い一方で、国内の評価が低かったこと(既存のデータ同化手法からの切り替えが進まなかった)、より社会的にインパクトのあることができるのは民間企業であることから、研究活動に付随して行ってきたシステム分野を軸に就職活動を始めました。

エントリーシートを提出した企業は、NTTデータ、野村総合研究所、新日鉄ソリューションズ、みずほ情報総合研究所、三菱総合研究所、大和総合研究所の6社でした。
先述の通り、研究の道を進むことも考えましたがシステム分野へ転身して社会的にインパクトのある仕事に取り組みたいこと、幼少時代から一貫してサッカーに打ち込み大学では部活動、大学院では社会人チームに所属し精進してきたことを中心に記載しました。
面接前にはHP、特に決算報告書なども読み込み、自身が会社内で取り組める環境があり挑戦できそうなこと、会社の今後の方針に自身の考えが合致していることなどを述べました。
結果、NTTデータ、野村総合研究所、新日鉄ソリューションズに内定を頂きました。

就活当時はリーマンショック直後と言うこともあり、業界全体で採用活動が縮小していた中で、3社も内定を頂けたことは大変幸運なことでした。
選ぶにあたってより企業を深く勉強しようと努力しましたが、正直いずれの企業もそれぞれに魅力があり、優劣が付けられませんでした。
最終的な決め手は、企業を知りたいと社員の方に質問等をさせて頂く中で、大学OBの先輩社員の方がどれだけ親身になって相談に応じて頂いたかと言う点でした。
決して、他2社の社員の方が親身でなかったわけではなく、特に1社の社員の方が東京に出て行くたびに会って話を聞いてくれ、メール等でも頻繁に疑問・不安な点のフォローに回って頂けたことが決め手でした。その会社はNTTデータでした。
同じ職場で困っている人がいる時、後輩でなかなか質問や不安を聞けてなさそうな時、その気持ちに寄り添って積極的に声をかけてフォローしたいと思う精神は、この時の先輩社員から受けた御恩に強く影響を受けていると思います。

新入社員時代

NTTデータは研修制度がとても充実しており、様々な企業に散っていった大学の友人らと話をする中でも突出して時間・コストをかけている印象でした。
研修という業務に結びつく事項を学ぶ以外にも、入社同期のメンバーとの交友関係が広く形成でき、NTTデータを退社して10年以上経った今でも、そのメンバーと集まったり、連絡を取り合えていることは非常に良いことだと感じております。

配属された部署は、法人向けにソリューションを提供するG-ITカンパニー 流通サービス事業本部 でした。
プリペイドカードを用いた決済システムを開発・提供し、運用・監視まで実施している部署でした。

システムの運用・監視のチームに所属し、システム改修、アラート発生対応等に従事しましたが、中でも一番大きかった業務は、あるデータセンターから別のデータセンターへシステムを移設する業務でした。
全4システムある内の1システムを先輩社員、恊働者さんの3名で担当し、先輩社員は別システムも兼務していたため、中心的に携わらせて頂きました。
単純なシステム電源の ON/OFF のみならず、配線図の点検、非常時を想定したバックアップ作成、即時交換品手配ができる体制構築、マニュアルからの手順書作成などを行いました。
システム全体のインフラ部分に関わることができたことに加え、非常時・予期せぬ事態を想定した事前準備を学べたことは、システムと言う枠以上に、仕事をする上で役立つ思考・考え方を学ぶことができ、大変感謝しております。

妻との結婚、会社への感謝

入社後2年が経ち、現在の妻とは結婚の話題が持ち上がるようになりました。
妻の実家は畜産業(肉牛)を営んでおり、婿入りし事業を継続することを念頭に結婚できないか、と言うものです。
NTTデータでの業務にも馴染み、やりがいも感じ、会社としての将来性・安定性にも申し分なく、何もなければ退社することは選択肢には上がらない状態でした。
今思えば、正直なところ、考え抜いてみたところで結論は出るはずもなく、思い切った決断ができるかどうか、その意思を突き通せるかどうかの問題なのですが、当時の自分には重い判断でした。

結婚となれば、私個人のみならず御家にも関わることですので、もちろん両親には相談しました。
長男であったため、反対を受けるかと思っておりましたが、「本人が考えて決断したことであれば、一人の立派な大人なので、親が何か言うことはない。決めたことに強い意思を持って進めば良い」と後押ししてもらえたことは有り難かったです。
周りを気にすることなく、自分の決断を尊重してもらえる環境を用意してもらえたことで、考える軸を定められたように思います。
最終的に、どんな仕事であろうと本気で向き合えば成功できるはずだと言う根拠のない自信に加え、遠距離になりながらも一度も喧嘩せずに5年付き合い、今後このような人に出会うことができるのだろうかと考えた結果、結婚することに決めました。
1年間の考慮期間をもらった最終日の12月31日、この日のことは一生忘れないと思います。

年明けに上司に事情を話し、半年後の6月30日を持って退職させて頂きたい旨を伝えました。
上司からすれば退職決定の旨を一方的に伝えられるようなものですので、大変失礼な伝え方になってしまいましたが、「おめでとう!いい奥さんに巡り合えて幸せだな!!」と全面的に応援して頂き、心から感謝するばかりです。
その後の6ヶ月は、これが会社員として成果を出せる最後の機会と思い全力投球で臨みました。
最後に、「退職が決まっていたって、こなした業務に対する正当な評価だ」と、6月のボーナスまで出して頂けたこと、本当に上司には頭が上がりません。
本当に良い職場、良い会社に巡り会えました。

宮城県での牧場時代(初期:生き物の難しさ)

結婚に伴い苗字が変わるため、事務処理の煩雑さを避けるため、退社後の7月に入籍となりました。
7月最初の大安、7月2日。この日も忘れることの出来ない日です。
結婚の前年には東日本大震災があり、幸い津波被害の範囲外ではありましたが、妻の実家の地域は最も震度が大きい地域でした。
震災当時はまだ東京にいたため話だけで聞いていましたが、実際に訪れると、立っている電柱はみんな傾いておりますし、津波被害のあった沿岸部は以前に一度訪れた時の景色がウソのように真っさらに何もなく、言葉にならなかった記憶が残っています。
一方で、これだけの被害を受けながらも、前向きに会社や自身の農業活動を復活・前進させようとする強い力、一次産業を中心とする田舎経済の力強さを目の当たりにでき、当時の自分は見ているだけで刺激になりました。

さて、牧場生活が始まったのですが、まず牛を見ても大きい・小さいの区別も付きませんし、具合が悪い牛を教えてもらっても見分けが付きません。
ペットすら飼ったことがないですし、動物園の羊小屋に入れば目が痒くなって出てきてしまっていた自分です。毎日牛を見ていても一向に分かるようになってこないので、最初の3ヶ月は相当な不安と焦りがあったのを覚えております。
加えて、田舎の床の間を背負った家主は、家族内の絶対的な存在で、今後の経営を担うとなれば厳しくなるのも当たり前です。
1回だけ自分の両親に「無理だ・・・」と電話したことがありましたが、「家名を捨てて出て行ったのだから、そんな短期間で諦めたなんて言えるわけ無いだろう。」と諭されました。
正解ですね、あの時に「無理しないで戻って来なさい」と言われていたら、何も壁を乗り越えられない人間になっていました。

肉牛は生後30ヶ月程度で出荷されるのですが、3ヶ月程度経ってくると、段々と月齢(生後何ヶ月か)が分かるようになってきますし、明らかに具合の悪い牛も目につくようになってきます。
この時に学んだことなのですが、理系出身・システム経験ありの自分故に、牛を見る時のチェック項目を作って最初の3ヶ月間を過ごしていたのですが、畜産業としてはこれが非常に間違いでした。
チェック項目以外のことに気が付けなくなりますし、そもそもチェック項目なんかで網羅できる量ではないのです。
牛を観察するだけでも、目つき・毛づや・糞便状態・足付き・歩き方・呼吸・ケガのあるなしなど、項目を書いたらキリがありません。
それ以外にも、牛舎の状態・気温・エサの状態・作業機械の状態と数限りありません。どうすれば良いのか。
目・耳・肌から入ってくる情報に直感的に反応し、見つける・気がつくしかありません。これが所謂、畜産農家の "勘" です。
つまりは、作業の全てを習慣として会得し、いつもと違う状況・状態に気がつける能力を身につけるしかないのだと思います。

生き物相手ですので365日休みなしに仕事をするのですが、3年ほど経つと、この直感が少しずつ身についてきて、「原因はよく分からないけど、あの牛、何かおかしい。」とちょっとした変化に気がつけるようになりました。
どの時点から気がつけるようになったか明確な境界は分からないのですが、まさに日々の格闘が実を結んだ結果なのだと思います。

宮城県での牧場時代(後期:子牛の出産に追われる日々)

3年経つと何となく牛の違いに気がつけるようになり、5年経つと牛の違いを理解できるようになり、10年経つと牛が変化を語りかけてきてくれるようになりました。
牛への理解が進むことと合わせて、作業機(ホイルローダー・リフト・トラクター)操作、大型トラックでの出荷、単管パイプ組立、大工作業・水道修理など、多岐にわたって身に付けました。

そんな中、経営的な変化に伴い、さらに業務量が増加することとなります。
これまでの肥育過程(10ヶ月齢程度の素牛を購入し、30ヶ月齢程度まで育てて出荷する過程)のみの経営形態から、近年の素牛価格の高騰の対応として、繁殖・育成過程(母牛を飼育し子牛を出産させる過程と、出産した新生牛を10ヶ月齢まで育てる過程)も取り入れた、出産から出荷までの一貫経営へと変化しました。

この変化により、これまでは素牛の導入・給餌・牛の環境整備・出荷の行程であったものに加え、母牛への種付・妊娠鑑定・出産・哺乳などの行程が加わり、業務量が格段に増えることとなりました。
特に出産に関しては、昼夜問わず発生する(低気圧・満月の出産率は高い!)こととなり、徹夜で業務に追われることも増えました。
飼育頭数は育成・肥育過程で800頭、繁殖過程で300頭ほど、牛の妊娠期間は285日ですので、単純に1年1産と考えると、ほぼ1日1頭出産の計算となります。
妻の両親の高齢化に加え、従業員の方も全員が60歳を超えており、私と妻の業務量が日に日に増えていく状態でした。
就農していた10年間で丸1日仕事から離れたことは記憶にありませんし、自分の祖父母が亡くなった時も、早朝に仕事を済ませてから東京まで新幹線で移動し、通夜のみに参列して日帰りでした。

経営方針について1年以上にわたって話し合いをしましたし、若い従業員獲得に向けた動きも依頼し自分たちでも見つけて面接まで漕ぎ着けましたが、なかなか実現に向けて進めてもらえない状態。
加えて、業務量の増加に伴う私や妻の体調不良や寝付けない状態に、そろそろ参ったがかかり始めました。
こうした中、「経営ボリュームもある。お前ら夫婦がいなくなっても経営なんかやっていける。出て行くなり何なり、好きにすれば良い」との一言。
妻と共に身を粉にする中で、突き放したこの一言が非常に大きな亀裂を生んだことを発した義父本人が気が付いているかは分かりませんが、私達夫婦には非常に重いものでした。言われた日付まで覚えているくらいです。

現状、私自身の資産はなく決定権は全て義父にあり、経営的にも大きな変化が見込めない状態に加え、何よりも一番大切な妻や子ども達の幸せを実現するためにどうすれば良いのか、妻と毎晩のように話し合いました。
出した答えは離農でした。

都会への出戻り、全く違う環境への対応

夫婦共に無職の状態で東京に移り住むことになり、どうしたものかと両親に相談したところ、23区内の祖父の家が空き家になっているので、もし良ければそこで暮らしてはどうかと渡りに船の提案を頂きました。
金銭的な面に加え、幼少期から知っている土地勘のあるところに住める精神的な面でも、受け入れてくれた両親には大変感謝しています。

一方で、妻と子どもは田舎から一歩も出たことがない「お上りさん」なので、居住環境の変化は大きかったです。
保育所・小学校の送り迎えは車だったことに加え、交通量も少なかったので、一番下の子にいたっては車が来ているのを見もせず道路に飛び出る始末。妻・子ども共に土地勘がないため、少し目を離せば迷子になり、探し歩くこともしばしば。
また、小学校の教育進度も都会の方が進んでおり、学業面での遅れを取り戻すのにも苦労しました。
何かあってもすぐに帰ってこれる環境でないと仕事はできないと考え、業界問わず自宅と最寄り駅近辺に限定して仕事探しをすることにしました。(今となってはこれが間違いで、じっくりとやりたい仕事や職場環境面に配慮した転職活動をすれば良かったのですが、夫婦共無職状態の焦りもあり、そこまで気が回りませんでした。)

ハローワークにて求人を探したところ、私の経験と条件に合致する会社が3社ありまして、内1社で早々に内定を頂けたので就職しました。
通勤時間で徒歩5分のところにある、特殊環境下の監視カメラの製造・販売を手掛け、いわゆる防犯カメラとは異なる狭い業種をターゲットとする会社でした。
書類応募から内定受諾まで3日間と、異例過ぎるスピード決着でした。
ご本人が独立・起業して創業した会社であり、社長は技術力があり多くの資格もお持ちになる大変優秀な方でした。社員数は社長含め6名と少ないながら、製品の業界内での立ち位置もよく、ラインナップは将来性のある会社だと今でも思っております。

技術職採用で、10年間勤務の大変温かみのある優しいベテラン先輩社員の部下に配属されました。
ビデオ映像の取り扱いなどしたことがありませんでしたので、通信規格・圧縮規格・製品ラインナップなど、入社後は最低限必要となることを必死に勉強しました。
おかげで、入社1ヶ月で入電した電話はほぼ全て担当しましたし、現場での施工もするようになっておりました。

エリートネットワークとの出会い

勤め始めてから徐々に、技術職採用ながら営業職と同じ売上目標を設定されていたり、週次の定例会議では社長の度の強い叱咤激励が飛んでいたりなど、不安な部分が露見し始めておりました。
最大のきっかけは、10年間勤務のベテラン先輩社員が突然課長職を解かれ、残業代もみなし残業ではなくなったことでした。
特に過失をした訳ではなく、私もご本人もビックリしました。こっそり聞けばその先輩は10年間勤続ながら基本給が私よりも低かったと知り、さらに驚きました。
過程での努力を重視せず、結果の数字のみを最重要視する方針に加え、10年後の収入見込を目の当たりにし、今後への不安が積み重なっておりました。
また、妻・子ども達も環境に慣れ、自宅から離れた場所での勤務にもさして問題がなくなってきたことから、入社後3ヶ月の間もない時期でしたが、転職活動を始めることにしました。

今回は職種もシステム分野に絞り、過度な売上ノルマがなく職場環境の良いことを条件に盛り込み、Indeed・リクナビ・マイナビとサイト登録するところからスタートしました。
やはり10年間の畜産業経験はなかなか歓迎してもらえず、新卒採用当時の経験が100%活かせると応募したNTTデータの子会社も書類落ちしておりました。
ここでダメなら結構厳しいなぁと先行きが不安な中、Google検索で偶然見つけた求人ボックスの情報を経由して、人材紹介会社の(株)エリートネットワークに連絡を取りました。

杉本さんへの感謝

担当して頂いたのは転職カウンセラーの杉本さんでした。
この時点まで、各転職サイトに登録しても、サイト上で応募・落選連絡をやり取りするなど機械的な転職活動を続けていました。
しかし、私自身の都合で急遽30分も遅れて開始させて頂いたにも関わらず、初回から1時間半もの長い時間、親切丁寧に希望・要望をヒアリングして頂きました。
本体験記でここまで記述した内容の殆どをお話させて頂き、その上で、条件にマッチした求人を多数ご紹介して頂きました。

業界が異なり過ぎるが故に、結果的に無駄だったかもしれないと思っていた10年間を、真正面から受け止めて頂き、「書面では表せないような経験をされているので、書類選考はなかなか厳しいかもしれませんが、一次面接まで行くことができれば、その思いを伝えることで内定まで進めることができると思います。」と強力な後押しを頂いておりました。
この言葉が自分にとってどれほど心強いものだったか、なかなか進まない転職活動の中、大変助けられた思いでありました。

一番印象的だったことは、3回目ほどの打ち合わせの時です。
「もし転職活動の失敗が続いたとしても、内定が受諾できるまでお世話頂けるんですか?」と質問させて頂いた時に「もちろんです!」と即答頂けたことです。
これほどまでに転職者に寄り添ってサポートする人材紹介会社があるんだ、本当に良い会社だなぁと率直に思いました。
その折、「うちの会社でもシステム部門の募集があるのですが、どうですか?」との提案をして頂きました。
すぐにシステム部門の毛利さんも交え、現在の私のスキルでお役に立てるのか、疑問・質問等をさせて頂く機会をセッティング頂きました。
熟考の末、自分の中に強くGOサインが灯り、応募させて頂く運びとなり、無事に内定を頂くことが出来ました。
ここまで転職活動を心強くサポートして下さった杉本さんには、単に感謝という言葉だけでは足りないくらい本当にお世話になりました。
自分が得たこの経験を、一人でも多くの方に経験してもらうべく、システム部門の一員として精進していく所存です。

まとめ

冒頭でも書かせて頂きましたとおり、転職活動は人生における大きなターニングポイントであることは間違いありません。
転職希望者の大半は、同業種間であったり専門性を活かした職種での転職をされている方だと思いますが、そんな中に、一方で私のようなもの凄い振り幅の大きい転職成功者がいることを知って頂ければ幸いです。

この転職体験記を見た方が、良き人・良き仕事に出会い、充実した人生が送れることを切に願っております。

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