一部上場 不動産デベロッパー 人事部 人事・採用担当
一部上場 大手警備会社 警備職 → 営業担当
大手電機メーカーのグループ会社 人事部 人事担当
一部上場 情報サービス大手 人事部 人事担当 → 法人営業(チームリーダー)
染谷 仁 氏 37歳 / 男性
学歴:千葉県立 佐倉高等学校 卒
芝浦工業大学 工学部 土木工学科 卒
新卒では大手の警備会社に総合職として入社しました。就職活動を振り返ると、深く考えずに決めてしまった、ということに尽きます。「大学の研究室で都市開発をかじっており、その警備会社が“安全が担保された街づくり”をビジョンとして掲げていて共感したため」という志望動機は、文章にするともっともらしいですが、実際は大手から内定を得られたことに安堵し、深く考えずに入社を決めてしまったというのが本音です。
大手、安定、スーツを着た事務系総合職、土日休み、定年まで一社。そういう条件の職を探して就職活動をしたわけではないのですが、当時の思考パターンは、父親の職場のイメージから受けた影響が非常に大きかったと思います。もちろん父も仕事をするうえで大変な苦労があったと思いますが、当時の一般的な「働くお父さん像」と同様、どこの会社の総合職もすべてそういうものだと思い込んでいました。今思うと無知の極みで恥ずかしい限りです。
父の仕事ぶりを頭に思い浮かべながら始まった社会人生活ですが、現実は想像と全く異なるものでした。警備会社ですから、男性社員は研修と称してまずは現場に配属されます。現場、すなわち警備員です。ヘルメットをかぶり、防弾チョッキをつけ、警棒を持って、警報が鳴った物件に緊急対処として駆け付けます。当然、夜勤がメインです。警備員になりたくて入社したわけではありませんが、総合職としてキャリアを積んでいくために初めに現場を経験する必要性は理解していたため、特に疑問を持たずに続けていました。
5か月ほど経ち、同期の中で少しずつ異動する者が出てきました。私も人事部から半年で東京の本社に呼ぶと言われていましたので、今か今かと辞令を待っていました。しかし、結局のところ声がかかったのは2年半後でした。本社ではなく大阪支社、しかも営業職でした。
2年半の間、辞めようという思いはありませんでした。理由は大きく2つで、「今は研修期間だ」という意地と、緊急対処先で仲良くなったお客様との交流です。緊急対処の9割以上は誤報で、なかでも圧倒的に多いのがお客様の操作ミスです。退勤時に建物に社員がまだ残っているのを知らずに警備をセットしてしまった、出勤時に警備を解除し忘れたまま扉を開けてしまった、など。だいたい同じお客様がミスをされるので、毎度訪問していると互いに顔と名前を覚えて仲良くなります。
そうやって交流を深めていくうちに、防犯カメラを取り付けたい、ガラスに飛散防止のフィルムを貼りたい、など様々な営業情報をいただくようになりました。営業部署は別に存在していましたが、どうせなら君から買いたいと言っていただけるのです。このあたりから、ビジネスにおける人との交流、人とのつながり、理屈(≒値段)だけではなく感情(≒誰から買うか)の大切さを実感し始めていました。
営業活動という緊急対処以外の業務に注力したのは、いつまでたっても異動辞令が届かないことから少しでも目立って人事部に気付いてもらいたいという気持ちからでした。しかし、やっと届いた辞令は本社ではなく大阪支社、しかも営業職。話が違うと人事部に電話しましたが当然取り合ってもらえるわけもなく、初めて退職を考えました。しかし、「転勤拒否していたらサラリーマンなんてできないぞ」という父の言葉に「それもそうだ」と思い直し、異文化の大阪に赴任しました。
大阪支社での営業職は、初体験ではあったもののそこそこ売れて業績も上がり、それなりに面白さも感じました。しかし「こいつは東京本社の予定だったが営業職として数字を上げそうだから営業部門でいいか、大阪支社がちょうど不足しているし」といった安易な辞令だったのではないか、という釈然としない気持ち悪さがずっと頭に残っていました。社員の希望と適性を見極めその社員が一番力を発揮できる部署に配属するのが人事部の仕事だと思い込んでいた無知な自分としては、その通りにならない「人事」という仕事に興味を持ち始めていました。
3ヵ月後、自らの思いが変わらないことを再確認し、スパッと退職して東京に戻りました。両親に「数か月以内に次の仕事を決めるからしばらく居候をさせてくれ」と頼み、転職活動に励みました。転職エージェントの存在を知らなかったため、WEB広告媒体経由での直接エントリーです。当時「第二新卒」という言葉が流行り始めていた頃で、売り手市場だったこともあり、幸いほとんどの企業で面接まで進むことができました。ここでご縁があったのが、大手電機メーカーのグループ会社の人事ポジションでした。
後に聞いたところによると、1人の採用枠に自分を含めて300人の応募があったとのこと。しかも私は2番手の候補だったそうで、1番手が辞退したがゆえの内定でした。2週間限定で掲載されていた広告をタイミング良く見つけて応募し、偶然一番手が辞退して私に声がかかった。不思議な縁を感じました。日頃から「運」は自分で引き寄せるものだと考えていた自分としては、そういう姿勢が「縁」をもたらしたのかなと思いました。
2社目での人事ポジションでは、社会人としての基本を一から学び直しました。1社目は現場業務だったものですから、メールの使い方をはじめとしたビジネスマナー、社内政治に関してなど知らないことばかりで、大学の同級生に3年ぶりに会った時にその差を痛感しました。
この会社の人事部でもっとも印象に残っている仕事は労務案件で、ある社員が「上司からパワハラを受けた」と申告してきたものですが、裁判所での労働審判に至るまでこじれた案件でした。その際に顧問弁護士と細かな調整を連日続けた経験が、人事は会社や社員の役に立つ部署だという思いを強くし、このまま人事分野を極めていきたいと思うようになりました。
順調だった2社目での毎日ですが、結婚し、子どもが生まれたあたりで待遇に不安を感じるようになっていました。日本の電機業界全体が不景気で人員整理などが盛んに行われていた時代です。子会社である自社はいつ清算されてもおかしくありません。昇給が3年ほど止まっていたこと、保守的な社風で何を提案しても「前例がない」「親会社の許可が必要だ」と返されてしまう文化にやや違和感を持ち始めていたことなどから、思い切って違う世界を見てみることにしました。
この時の転職活動で、初めて転職エージェントを利用しました。30代前半で3社目という社数の多さから、自分のキャリアを第三者と一緒に冷静に棚卸ししたかったこと、何事も決めつけがちな自分に対して視野を広げるアドバイスが欲しかったことが理由です。ちなみに、転職エージェントを詳しく知らなかったこともあり、テレビやWEB広告でよく目にするどちらかというと若手向けのエージェントを利用しました。
ありがたいことに複数社から好条件を提示いただき、保守的な前職とは正反対にある大手の広告・情報会社から人事部門の採用担当ポジションで内定をいただきました。
エージェントから紹介いただいた際、正直なところ応募をためらいました。保守的な社風に違和感を持って前職を飛び出そうとしているものの、あまりにも正反対のこの会社で自分はやっていけるのか。背中を押してくれたのはエージェントの「一度会ってみたらどうですか」の一言でした。しかしながらそのあとは驚きの連続でした。紹介を受けた翌日に一次面接設定、ミニスカートの若い女性面接官にその場で二次に上げると言われ、さらに翌日に部長の二次面接、その場で内定と言われ、若手に判断権限が与えられていることとあまりの決裁スピードの早さに考える余裕がありません。さらに、「あなたのここを評価している。一緒に働きたい」と明快に言われ、断る理由はありませんでした。
ここでも運と縁を感じました。あえて付け足すならばタイミングでしょうか。さらに入社して1週間、担当役員に社員向けメッセージの素案を作って持っていた時の「なんだこのつまらない文章は。役所の瓦版か。もっと笑いをとれよ」という言葉。つまらない? 笑い? はじめは言っている意味がよくわかりませんでした。その後も、先輩社員から「あなたは応募者に対して自分のことを「私」って言っちゃダメ。真面目過ぎてつまらない会社だと思われるから」 この手の話は枚挙にいとまがありません。
そんなこんなで始まった3社目ですが、気付けば6年。3年目には人事部から営業部署に異動になり、途中チームリーダーに昇格、部下の育成やマネジメントをかじったりもしました。この営業は、高等学校に対して電子教材を使った課題解決支援の提案をする仕事でしたが、立ち上がって数年の若いビジネスで、まだまだ型ができていない新規事業でした。営業職として目標達成できるのは一握り、一方で、この会社の特徴でもありますが、未知の領域でもどんどん切り開いてトライアンドエラーを繰り返し、ナレッジ展開して超高速で型化していく、この流れを経験できたのは自分のキャリアの中で大きな収穫となりました。
1社目での大阪転勤の数ヵ月を除きこれまでほぼ首都圏で生活・仕事をしてきましたが、営業職として北海道拠点の新規立ち上げを任され、札幌に乗り込みました。都内にマンションを購入したばかりだったこともあり、単身です。会社から期待されての赴任だったため、大阪転勤の時と全く違うワクワクした気持ちで飛行機に乗ったことをよく覚えています。また、人事辞令はモチベートの仕方で社員の受け止め方が大きく変わることも実感しました。
ホテル暮らし1年、単身赴任1年、家族を呼び寄せて2年の計4年、札幌で過ごしました。上司が体調を崩して休職したり、メンバーが退職して自分1人になってしまったりと落ち着かない部署ではありましたが、お客様である高等学校の先生には大変に可愛がっていただき、私が一番嬉しいと感じる「あなたが営業だから契約したんだよ」という言葉をたくさんいただきました。
この会社は定年まで勤めず「卒業」と称して旅立っていく社員が多い文化ですが、30代後半になり、時が満ちたなと感じたのは営業職として初めて目標達成が見えた4年目が終わろうとする春でした。子どもの進学で家族だけ未入居のまま置いていた東京のマンションに戻ることが決まり、何となく「そもそも “転勤” ってなんだろう」と考え始めました。家族と一緒に東京で暮らしながら、人事でスキルアップしていきたい。再び退職の心は決まりました。
エリートネットワークの松井さんとの初めての会話は今でもよく覚えています。北海道での4年間が終わり「卒業」を考え始めた頃、東京出張の予定があり、訪問して相談するならこのタイミングかなとWEBエントリーをした翌日に電話をいただき「いま大丈夫?」 絶妙な親近感と安心感のある関西弁で、この会社のOBということもあり状況をほとんど言い当てられ、こちらの状況を深く深く知ろうとしてくださり、初めての電話にもかかわらず1時間近く濃密な会話を交わしました。
世の中には様々な人材紹介会社があり、そのほとんどが企業の求人情報と転職希望者の希望をデジタルに突き合わせて、ヒットしたものを紹介するというものです。部屋探しで例えれば、「駅から5分、風呂トイレ別、オートロック付きで」とオーダーすれば端末を叩いて「5件ヒットしました、さっそく見に行ってみましょうか」と返ってくるイメージです。それならば自分でWEB検索したり人間ではなくAIの対応でも事足ります。そうではなく、駅から5分という条件の奥に隠された本当の理由をきちんと聞き出してくれ、場合によってはこちらが気付いていない側面に対しても新たな提案もくれる、それがプロだと思うのです。松井さんはまさにプロ中のプロでした。
人とのつながりが大事だと感じていた自分としては、この方の紹介で次の職場にお世話になりたいと素直に思いました。実はもう1社のエージェントにもエントリーして面談に伺ったのですが、前述の部屋探しのような対応だったので、途中でお断りしました。もちろん合う・合わないもあると思いますし、人それぞれの価値観があるとは思いますが、自分の価値観をきちんと把握し、それに合う方のアドバイスを受けることは非常に大切だと思います。付け足すならば、そういう方と出会えるか否かも運と縁とタイミング、そしてそれらは自ら迎え入れるものだと思います。
これを読んでいらっしゃる方はおそらくある程度のキャリアを積まれたミドルクラス以上の方が多いと思いますが、私がお伝えしたいのは、大きく2つ。まず自分の価値観(嗜好、癖、何をされると気持ち良いかなど)をきちんと知ること。次に、それらを理解してこちらの意向をきちんと汲んで的確なアドバイスをくださるプロのエージェントに相談することです。
無知な新卒だった私が、気が付くと社会人十数年、現場での警備員から始まり、保守的な社風の人事、正反対の文化の人事、法人営業という四方揃った濃い経験ができたこと、そして30台後半の脂の乗ったこのタイミングで素晴らしいプロのエージェントに出会えたこと。
何となくのようでいて実は自分で考えて選択して進んできたからこそ今のこの状況を迎えられたこと。それには縁と運とタイミングが重要だと改めて思います。
次は松井さんからご紹介いただいた東証一部上場デベロッパーの人事ポジションにてお世話になります。まだ入社前でわからないこともたくさんありますが、合うか合わないかは重要ではなく、合わせるもの。この選択は正しいのか間違いなのかではなく、自分の今までしてきた選択はすべて正しいのだ、と信じること。そのうえで、これまでの経験を活かし、自身の成長はもとより、お世話になる新しい職場とその社員の皆様へより多く貢献できる人事マンとして仕事をしていきたいと思っています。