株式上場 金融情報会社 編集長候補
米国系金融通信社 為替・債券チーム 記者
大畑 弓子 氏 58歳 / 女性
学歴:福岡県立 明善高等学校 卒
西南学院大学 文学部 英語専攻科 卒
ニューヨーク大学大学院 修士課程(メディアエコロジー学科 コミュニケーション専攻) 修了
TOEFL PBT 600点
前職は米国系通信社で、定年制はないものの、日本支社では大半が60歳前後に退職する慣例でした。心の準備はできていたつもりでしたが、実際に人事部から最終日を設定された時、日本で私の年齢で女性が転職できるのかと非常に不安でした。転職活動を始めて数か月間、登録した人材紹介サイトから送られてくる自動求人メールへ応募する作業を続ける日々が虚しく過ぎ、落ち込みました。
そんな中で(株)エリートネットワークの転職カウンセラーである篠原明広様と面談を行った後、転職先となる金融情報会社をすぐに紹介され、社長面接まで進めることができたことは、篠原様の普段からの法人営業力のお蔭だと思います。これまで内外の金融通信社で約30年間に渡り、金融市場の動向を調査・分析し、記事を執筆・配信してきた経験と専門知識を活かせる仕事を続けることができ満足しています。
金融情報通信社という業界に入ったきっかけは、1988年末に渡米し、ニューヨーク大学大学院を卒業した後、労働ビザ(H1Bビザ)を支援してくれる条件で、日系通信社の米国法人に初の現地採用として入社したことでした。
最初に上司に「公定歩合って何ですか?」と聞いたほど、全く金融・経済には関心がなかったのですが、米国のエコノミスト、ストラテジスト、アナリストなどにインタビューを重ね、金先物や原油先物の市況を書いているうちに夢中になってしまい、今に至っています。
1990年代初めは、米国先物市場が大きく発展し始めた時期で、商品先物取引所を見学に行ったことを鮮明に覚えています。ニューヨーク連邦準備銀行を訪れ、通貨供給量や米連邦準備制度理事会(FRB)の金融政策について話を聞いたことも良い経験でした。
ちなみに当時のニューヨークはブラックマンデー後の不況で失業者・ホームレスが街に溢れ、金価格は1オンス=200ドル程度と現在の1500ドル程度の約7分の1。底値圏で横ばい相場だったので、新人に担当させたのだと思います。
スイス銀行の金市場ディーラーに電話取材しても「全く取引がなくて暇」と言うばかり。「金先物、閑散小動き」と毎日書いていたら上司にこれでは誰も読まないと叱られ、記事は読まれなければ意味がないと肝に命じました。それ以降、相場が1セントでも上がれば「小幅上昇、小じっかり、強含み、堅調」、1セントでも下がれば「小幅下落、小甘い、弱含み、軟調」と見出しを必死に工夫しました。
クリントン政権時に移民政策が緩和され、グリーンカード(永住権)を取得できたことから、米国の通信社最大手のA社へ転職し、日本語サービス事業立ち上げに参画。その後、同社の日本支社へ転勤し、主要政府官庁・日本銀行などを担当しました。
ところが同社は、2001年9月11日の米同時多発テロにより、爆破されたワールドトレードセンターに入居していた最大顧客を失って破綻。米国事業を英国系の通信社であるB社、日本事業を日系通信社であるC社に買収されて、C社傘下の金融情報サービス会社へと自動的に移籍することになりました。ただその後さらにC社は買収した日本事業をB社に転売したため、B社日本法人へそのまま移籍しました。株式市場や東京証券取引所などを担当しながらも、会社の買収・合併・転売による波乱の展開から仕事どころではない状況が続きました。
2007年にB社がカナダの情報サービス企業、D社に買収されるとの発表が流れた後、日系通信社の米国法人での同僚が日本支局長だったことから、引き抜きの誘いを受けて前職の米国系金融通信社へ転職。日本国債や為替市場を担当すると共に、短い記事を速く多く配信するファーストワードや重要イベントでのライブ配信ブログ形式トップライブなど新サービスを開始したことは楽しく有意義な経験でした。一方、A社の破綻やD社によるB社買収合併報道は、いずれも自社端末画面で知り、驚愕の経験でした。
新たな職場は新興ベンチャー企業で、社長を含めて若い人が中心なので、これまで私が培ってきた経験・知識を伝え、収益・事業の拡大に貢献したいと思います。
同社は、クラウドファンディングなど新規事業を積極的に推進し、金融業界全般の変革に意欲的な姿勢に加え、金融情報・フィンテック・仮想通貨など今後の事業展開余地が大きいことが魅力だと思っています。金融メディアプラットフォームによる情報提供を通じて、個人投資家だけでなく内外機関投資家向けの記事・サービス・商品を拡充し、投資・資産運用を支援したいと思っています。